不死鳥の涙 ーリック・シンプソン物語ー 第4章
第四章 薬漬け道一直線
私が怪我の為に最初にかかった神経科医はヤブ医者だったとしかいいようがないのだが、それは最初の一人目に過ぎなかった。彼が見立てた私の病状が記してある診断書を受け取ったが、別人のもののようだった。私の体調は頭の中で鳴り止まない騒音のせいで全然寝られず、悪化の一途を辿った。この時、直ちに大麻で緩和しなかったのが、今思えば馬鹿らしい。
当時、ヘンプを使うということが、すっかり頭から抜け落ちていた。怪我と処方されたケミカルな薬が、頭を朦朧とさせていたのが原因かもしれない。9ヵ月後の1998年9月、それまで診断さえ下されていなかったが、ついに「脳震盪後症候群」だと診断された。当時、治療を担当してくれた耳鼻咽喉科の医師に、どんな事故だったか説明すると「本当にラッキーだったね」と言われた。実際そうだとしても自分が置かれた状況に鑑みて、とてもそんな風には考えられなかった。誰が四六時中両耳の間で騒音が鳴っているのを幸運だと思う?
怪我をしたとき、私はプラスチックのベルトの付いた野球帽を被っていて、転落した際このプラスチックベルトが鉄の輪とぶつかって衝撃を分散させ、図らずも私の命を救ってくれた。医師によると私の怪我は、誰かが頭でホームランを打ったようなものらしく、生きているのが不思議な位なのだ。皮肉にも、プラスチックの帽子ベルトが命の恩人だった。
私の病状は予後が悪く、実施できる手術も無いので、彼らが提供する薬物治療だけが頼みの綱だと医師は言った。またストレスを避けるようにとも。怪我をした時、私にはすぐに労災が認定されるか、あるいは少なくとも長期休職扱いにされるべきところ、病院は私を病欠扱いにし、それまで溜めていた6ヵ月の病欠期間が無くなると、後には何も残らなかった。後になって分かったのだが、チームリーダーが書類を操作したことも、私がこの窮状に追い込まれた原因の一端だった。彼がしたことは完全に不正だったが、その時の私の状況では、何が起こっているのか理解するのにかなりの時間を要したのだ。
医師にとって「ストレスを避けろ」というのは簡単だろう、だが、暮らしを立てる術がなく、収入が無い状態で、どうしてストレスが避けられようか?怪我のせいで、今やもう運転できなくなっていたショベルカーをはじめ、私は持ち物の多くを売りに出さなければならなかった。労災認定局や障害年金事務所は〝リックを飢えさせるゲーム〟をすることに決めたかのようだった。補償の為として、この様な組織にお金を払わせられている人たちには同情する。もしその人達に何か起こっても、私の時と同様、彼らは多分逃げ回るだけなのだ。私には幸運にも父がいて、私を生かしておくための支出を援助してくれた。悲しいことに、深刻な病気や怪我に苦しんでいる人の多くは、こんなに恵まれていない。多くの場合、我々のシステムは、怪我に苦しむ人を助けるようにデザインされていないだけでなく、ともすれば、負傷した人を当惑させ、時としてその破滅を助長する。これらの組織がわたしのケースでしたことは、殺人未遂であると考えるのは、行き過ぎであろうか。だが、彼らからの、生きるための助けもないままに暮らさなければならなかった私は、確かにそう感じざるを得ないのだ。
1998年の末、私はDr.デイヴィッド・スズキが司会を務めるNature of Thingsという番組の、「リーファーマッドネス2」という回を見ていた。そこには、異なる様々な医学的問題を抱える患者たちが、ただ大麻を吸うだけで、病状に大幅な改善をもたらしている様子が映っていた。それはまるで光がさしたかのようだった。「そうだった、俺に必要な休息を与えてくれるものがあるとしたら、それはヘンプだろう。」その時私は、必要とされるヘンプを育てられる状態になかったし、ストックもなかったので、友達から手に入れることにした。そのとき医学システムが提供していたどんなものよりも確実に、大麻は私に休息をくれたのだった。
過去の経験からこの薬物について既に知っていたのにと思うと、自分が馬鹿に思えるのだが、なぜ睡眠を補助するために最初からヘンプを使わなかったのだろう?説明に苦しむのだが、その瞬間まで私は大麻を〝薬〟として見たことが無かったのだ。突如として私の前に、本当に助けになるものが現れた。私はすぐに医師たちに処方箋を書いてくれるよう頼みに行った。そうすれば、合法的にこの薬物を使用できる。私が頼んだ医師たちは全員、処方箋を出すのを拒んだ。「大麻はまだ研究段階だから」とか「肺に悪いですよ」などと言って。この時、単純に「くそ食らえ」と彼らに言っておけば、少しは気も晴れて怪我も良くなったかもしれないのだが、私はこの時点ではまだ医療システムを信じていたこともあり、彼らの処方する化学物質をとり続け、それらが与えるダメージを蓄積していった。
時が経つにつれ、私の症状はどんどん絶望的になってきていた。薬物治療に次ぐ薬物治療、しかしこれらの化学物質のどれ一つとして、役には立たなかった。1999年までには、これらの薬物の精神に対する影響と、苦しい抑鬱症状により、私はショットガンを咥え自殺する寸前だった。私は病状が回復するイメージが持てず、いっそのこと、ここで人生を終わらせるのが最善だと感じたのだ。私を思いとどまらせたのは、それにより子供達が直面するであろう悲劇だけだった。それを思うと、私は分別を取戻し、自分自身を闘病へと向かわせるのだったが、どうやら医療システムは私を助けてくれそうになかったので、私は自助の道を模索し始めたのだった。
私は既に、乾燥大麻を喫煙することが、自分にとっていくらか有益であることを知っていたが、私が必要とする適切な睡眠を促すには、乾燥大麻では強さが足りないと感じていた。私が試みた治療法の中で大麻は最も良い効果を発揮してくれてはいたが、それでもまだ私を深い眠りに落とすにはパンチが足りなかった。そんな時、私はオイルのことを思い出した。もし、カナビノイド(大麻の有効成分)を濃縮し、精油にして飲んだらどうなるのだろう?もしインディカ優位の品種を喫煙することで入眠効果が得られているのだとしたら、そのプラントから得られる濃縮オイルは、わたしをノックアウトしてくれるはずだ。私は次の診察で、自分の計画を医者に説明した。彼は私の顔を訝しげに見ていたが、ついにはこの植物の使用法としてより医学的だ、と賛成してくれたが、それでも処方箋は出してくれなかった。
私にとって、この医師達の言動は理解しがたい。彼らは私に、薬害以上になんの助けにもならない、依存性のある危険な薬物治療を提供し続けた。それなのに大麻の処方箋を私に出すのを拒否するのだ。出してさえくれれば、私はその薬用効果で自分の症状をコントロールすることが、合法的に出来るかもしれないのに。当時これには困惑させられたが、大麻の使用に関して、私の知らない某かの弊害があるからかもしれないと割り切ることにした。その時は大麻についての知識が全然無かったのだ。自分が処方されている薬の副作用を無視しようとしている人は多い、しかしながら、しばしばその効果は治療の為の本来の効果よりも大きいのだ。私に限っては、この薬物治療の効果は酷いものだった。私をただの馬鹿にしてしまうものもあったし、恐ろしい夢や、不自然極まりない思考をもたらすものもあった。私に処方された薬物治療によって、私の内面は死んだようになり、はっきりと物事を考えるのがほとんど不可能になった。その上、バランス感覚や睡眠の問題に対して全く効果が無かった。私に言わせれば、それは私の症状を単に悪化させただけだった。
このような怪我がもたらす主要な症状の一つは、とても機嫌が悪くなることである。怪我が原因のフラストレーションと、終わりのない騒音のなかを生きなければならないのがその理由だ。周りにいる人達は私を、いつ爆発するか見当がつかない時限爆弾のようだ、と思ったはずだ。私は化学的な薬物治療を受け続けたが、万が一必要になった時の為に、少量のオイルも精製した。実のところ、私はオイルの効果をどこかで恐れていたので、本格的にオイルを摂り始めてはいなかった。
私がオイルを精製したのは、医療システムが私を助けてくれるという信念が揺らいだからであり、全てが失敗した時に、他に試すものが欲しかったからだ。私に与えられた治療薬は症状を悪化させ、この時点で薬漬けのゾンビのようになっていた。そして2001年のある日医師に、他にできることは何もないと告げられた。彼によれば、できることは全て試したが、症状が改善するものはなかったということだった。私は匙をなげられたのだ。再度私は大麻使用の処方箋を求めたが、即座に断られた。私の思考は化学合成薬の影響下にあったが、それでも「なんなんだこれは?私の助けになることは何もできないのに、自分たちは天然のハーブを否定する権利を持っていると、こいつらは信じているのか?それが私の症状改善に有益だと、既に知っているにも拘わらず。」と朧げに考えていた。挙句の果てに、それが医療用の使用であったとしても、大麻で捕まれば、私は犯罪者として罪を着せられ、罰を負わされることになる。しかし、その事実も私の医療システムへの信用が失われるのを止めることはなかった。他に選択肢が無かった私は、家に帰りヘンプオイルを唯一の治療薬として飲み始めたのだ。
私は今まで薬物治療の合間に、何度かオイルを使ったことがあったが、その時は服用量はごく少量に留め、作用があまり大きく出ないようにしていた。少ない服用量での効果は、どこかヘンプを喫煙するのに似ていた。この物質の喫煙と経口摂取の大きな違いは、経口では身体の中で効き始めるのを感じるまでに、1時間程かかり、喫煙だと即座に効果が感じられるということだ。私は当初オイルに対して非常に慎重だった。このオイルが他にどんな効果を体に及ぼすのか、心配してもいた。だが私にとって、医療システムに裏切られた今となっては、他に選択肢はなかった。
私がオイルを本格的に使用し始めて、服用量を徐々に増やしていくと、不眠は最早問題ではなくなった。この薬は象だって立っていられなくするだろう。私は8~12時間、毎日泥のように眠りこけ、体調は回復し始めた。医療システムが私を見放した時、薬物治療の副作用で私は絶えずボーっとしていた。思考プロセスは適切に機能していなかったし、何も憶えられない気がしていた。オイルを使い始めてから間もなく、突如として記憶力と思考プロセスは顕著な改善を見せ始めた。それから私の体重は減り始め、それまで悩みの種だった膝関節炎のために飲んでいたグルコサミンを、最早摂る必要が無いことに気が付いた。始めの頃は、私はこのオイルがもたらしてくれる薬用効能について、それが鎮静作用を持っていること以外、本当に何も知らなかった。どうかすると私は、その効果を少し恐れてもいて、この体重減少は一体何だろうと不安になっていた。自作したオイルが私に害をもたらしているのだろうか?私はその時、全く知らなかったのだが、オイルは単に私の体を解毒し適正体重に戻してくれただけだった。大麻の精油でダイエット効果が得られるなんて、誰も予想できなかったはずだ。
この時以降、私の病状の回復は素晴らしいものがあったのだが、耳鳴りは消えなかった。オイルの使用は様々な要素で、絶対的に助けになっていたが、耳鳴りを取り去ることは出来なかった。オイルを使わない時は、騒音が私の生活を乗っ取ってしまい、血圧が極端に高くなるのだが、オイルを摂ると、まだあったとしても、耳鳴りの影響からはほぼ自由になれるような感じだった。私は自分の病状と以前とは比べようもなく、うまく折り合いを付けられるようになっていたが、病状を安定させておくには、この薬物の使用を必要としていた。医者たちがこれについて何というかは知らないが、苦しんでいるのは彼ら自身ではない。この物質における私の経験から言わせてもらえば、ヘンプオイルは私が受けた中で、最も効果的な薬物治療であるというのが正直なところだ。
この薬物を短期間だけ使った後でも、私の体重はおよそ185パウンド(84kg)から160パウンド(73kg)まで減った。そしてそこで横ばいになり、その後何年もそのままだった。また、私のバランス感覚に対しても顕著な改善がみられ、いつも転んでばかりいたのが急に治った。言うまでもないが、これらはおそらく私が得られるようになった休息と、身体から化学物質が消えたことによるのだろう。オイルは血圧をコントロールするのにも、素晴らしい効果を発揮したし、少なくともここまでで、悪影響は無いようだった。私は依存症になってもいなかったし、他の何も効果が出せない全ての面において、助けになってくれた。
私は初めてオイルを経口で大量摂取した時の事を今でもよく思い出す。私は適度な服用量を見つけようとしている最中だったのだが、ある夜、さらに大量に摂ったらどうなるか試してみることにした。私は0.5gほどを指にとり、口の中に放り込んだ。およそ1時間後、私は床に就いたのだが、数分後、私は気分が悪くなりはじめ、胃の中にあるものは何であろうと、そこに一分たりともいられないようだった。周りを汚したくなかったので、トイレに行くことに決めたが、そこで私は自分が動けないことに突如気が付いた。まるで全身が麻痺したかのようだった。指を上げることすらできないのだ。
「それみたことか、自分の体になんてことをしでかしたんだ。」と自責した。確かにそうだろう。時間にして45秒間位だったろうか、頭の中では何かとても混乱した思考が行われていた。そのとき私の攻撃的本性が前面に出て来て、自分に言った「ベッドから出ろ!」不意に私は再び動くことが可能となったが、トイレに行くのには骨が折れた。私はトイレに30分位いたが、吐いたりはせず、その後ベッドに戻り熟睡した。約10時間後、私は十分な睡眠をとって目覚めたが、まだオイルの効果は残っていた。オイルがもたらすことがある物凄く気怠い感じは、大体1時間後に徐々に消えていき、その後気分爽快になった。私の場合は、何かをしなければならないときは、オイルの鎮静作用を乗り越えるために〝気合い〟を入れるだけでよかった。そうすれば、最低でも動くことができた。
オイルを摂ったときの作用と、アルコールを摂取したときの作用は全然違う。我々の多くは、酒をかなり飲んでいたとしても、まだ運転できると考える。対して、オイルは大量に摂り過ぎると、布団しか目に入らない。私自身と他の人の様子からオイルの効果を判断すると、オイルを摂り過ぎた時に車の運転をしたいとは誰も思わない。だから、この物質を過剰摂取した誰かが、高速道路で公衆に対して惨劇を起こす可能性はかなり低い。
最初に大量摂取した時から今日まで、オイルが手元にあるときは、私は今でも月に1度か2度、それくらいの量を摂ることがある。私は最早、あの胃が逆転しそうな感覚には陥らないし、作用を楽しむことができるようにもなって、大量摂取がもたらす余剰睡眠の恩恵を享受している。結果としてただ〝眠るだけ〟なのだから、オイルは過剰に摂ったとしても体に良いのだ。睡眠が体に悪いというなら別だが。
1990年代を通して、私の体には治るのを拒む不健康な部分が出てきた。それらについて訊かれたときは、これはフジツボだよ、と言って質問をはぐらかしていたのだが、本心ではそれらが皮膚癌であるという強い疑いを持っていた。問題は、私が単純に、自分に癌があるかもしれない、という事実を認めたくなかったということだ。誰だって医者のところに行って、その恐ろしい宣告をうけるのは嫌なものだ。それがたかが皮膚癌だとしても。病院で働いてきた私のような人間は、このタイプの癌にかかった人たちが、凄惨な死に様を遂げるのを目の当たりにしてきた。そういうこともあり、医者の意見を聞くのを、心待ちにしていたとは言い難い。2002年の年末に医師がこの部分の検査をしたとき、皮膚癌のように見えると言われた。これはしかし、術後の病理報告が上がるまでは、確実にそうとは言えないとも。
私に不快感を与えていた部分の一つは鼻の側面にあったが、右目に近いということで、医師は非常に心配していたようだった。彼は、目に近いからここを最初に手術しよう、と私に言った。その後で最近問題になってきている他の二ヶ所にとりかかる、とのことだった。2003年1月末あたりに手術が実施されたが、これが楽しい経験だったとは到底言えない。術後一週間程経ってから、私は鼻の脇の、彼らが取り除いた部分を見てみた。そこは化膿しており、実際酷い有り様だった。だが、これはそんなに珍しいことではなかった。アムハースト病院で手術を受けた人々の多くは、しばしば感染症にかかっていたのだから。
この時、30年以上も前に聞いたラジオのレポートが急に思い出された。それまでに、私はかなりの期間オイルを摂り続けていたので、もう自分の体がTHCで一杯だろうと考えていた。もしTHCが癌を殺すなら、なぜ私の皮膚癌は治らないんだ?そのときは、さっぱり分からなかったが、我々の身体で最大の臓器は皮膚なのだ。オイルを経口摂取するとして、皮膚癌に望む効果を出したいのなら、かなり大量のオイルを短時間で摂る必要がある。ほとんどの場合、オイルは罹患した箇所に外から局所的に直接塗られるべきなのだ。塗り薬、外用薬は即効性があると一般的に知られている治療方法なのだし。このときはまだ、私は自分が信じていた医療システムに未練があったのだと、認めなければならないだろう。私はこの薬物を使用することを考えてさえいなかった。自分が精製したオイルはTHCの塊だと知ってはいたが、私にとって、皮膚癌が治るというのは、そんなに単純なものであるはずがないのだった。
もし私がラジオで聞いたことが事実だとしたら、医療システムは既にTHCを癌の治療に使っているはずだろ?私はまだ疑問があったので、自分で答えを出すことに決めた。私は少量のオイルを絆創膏に塗って癌だと思われる部分に貼ってみた。私は4日間貼ったままにしておいたのだが、何も感じなかったので、オイルは効果がなかったのだろうと予想していた。オイルを使用してすぐに、癌が原因していた不快感がなくなっていたにも関わらず、この時点では、何が起こっているのか知らなかった。絆創膏を剥がしてみると、そこには健康なピンクの皮膚しか無くなっていて、私は衝撃を受けた。これはありえない!私が治療した二ヶ所は完全に治癒していた。友人達にこの方法で自分の癌を治したと話すと、彼らは鼻で笑うだけだった。まるでそれが全く意味をなさないかのように。彼等自身が罹患したわけではないのもあり、彼等にとっては下らないことだったようだ。そうだとしても、皮膚癌に苦しんでいる患者達には大いに意味があることのはずだ。彼らは何回もの手術にひたすら耐え、時には、医療システムが手を尽くしても、悲惨な死を迎えなければならない。
再度私は混乱した時期を過ごすことになる。魔法を起こしたのは本当にオイルだったのだろうか?結局そのときは、自分でしか効果を確認できていなかった。常日頃から私は真面目な人間だったし、私が何か言う時は、知人たちのほとんどは、少なくとも検討だけはしてくれたものだ。にもかかわらず、この体験について人に話すと、近しい友達でさえも笑って言うのだった、「どうかしてるぜリック、大麻が癌を治す?はいはい、よかったね。」彼らの方が正しい可能性も十分ありうる、と思い始めていたときだったが、そんな折り、外科手術で切除済みの目の付近にあった癌が再発して戻ってきた。私はそれが進行していくのを数日間見ていたのだが、まるでそこに短距離走者がいるかのような、手術前にあったのと同じ感覚が戻ってきていた。さらには以前そうした様に、腫上り、いつともなく出血した。
私は絆創膏にオイルを塗って、目にほど近い鼻の側面にそれを貼りつけた。4日後私が絆創膏を剥がすと、癌は完全に治癒し、ピンクの皮膚だけが残っていた。事ここに至り、残る疑問は一つだけとなった。私がこのオイルを使用して治癒したのは、本当に癌であったのか?程なくして、私は病理報告を受け取りに病院に行った。報告書は実際に手術で取り除かれたのは、基底細胞癌であることを確認するものだった。私は受付嬢に、彼女は医師の妻だったのだが、夕方もう一度来て、私が今研究中のことを医師と話し合いたいと伝えた。彼女はそれが何なのかを尋ねたので、私は彼女に、彼らが取り除いた目の近くにあった癌が、再発したと答え、ヘンプオイルを、その部分と残り2つの患部に塗って、3つとも治ってしまったのだと説明した。私は今まで誰かの態度が、一瞬でここまで豹変するのを見たことがない。彼女の反応からすると、彼女と夫の医師のどちらも、この話題と関わりたくないようだった。
彼女は叫び始めた「先生は来ません。先生はそれを処方しません。」私は病院の待合室に5、6人の患者と居たのだが、受付嬢は狂人のごとく私に怒鳴り散らした。私は完全にあっけにとられてしまった。この人達は何なのだ?私はヘンプオイルを使って癌を治し、それを医師に相談したかっただけなのに。そんなことはお構いなしに、受付嬢が望むのは、私を黙らせ、病院から追い出すことだったのだ。私は彼女の言動に軽い恐怖を覚えたが、それにも増して、予てより抱いていた不信の小さな種が、だんだんと芽吹いてくるのがわかった。私が知らない何かを知っているのでなければ、なぜ医者達は、私がどのように癌を治したのか、興味を抱かないのだろうか。さらにこの時期、私は点と線を結び始めていた。ここで、このオイルが私に何をしたか事実だけを見てみる。するとまず、私の思考プロセスが正常に戻った、次いで血圧とバランス感覚の問題もコントロールされている。さらに、膝関節炎も最早なくなり、適正な体重に戻り、遂には癌が治癒した。
それから、このオイルが治癒に関わった可能性がある他の出来事も考慮した。最初にオイルの精製を始めた時、私はうっかりして、自分に火を付けてしまった。これをうっかりとするのか、医療システムが提供していた向精神薬漬けだったからとするのかは、今となっては分らないが、とにかく、私は右手にシビアな深度3の熱傷を負うことになったのだ。私が「シビア」で意味するのは本当に過酷な状態だ。それは私の手の3分の2を溶かし、皮が一塊になってぶら下がっていた。
この火傷を負ってから数時間後、私の恋人がその場に到着した。火傷を見るとリアは、ハサミを持ってきて、壊死した肉を切り取り始めた。これは恐ろしい様に聞こえるだろうが、彼女が切り落とした肉は壊死していたので、ほとんど何も感じなかった。そんなにひどく自分を燃やしてしまってから、この傷は一生残るだろうし、この手は多分二度と満足に機能しないだろうと考えていた。私はこういうシビアな火傷を負った人を他にも知っていたし、その傷痕や、深刻な火傷が残す他のダメージも見てきた。この酷い火傷を負ってから11日後、私の右手は完全に治癒していて、傷痕も残らなかったし、完全に破壊されていた毛根まで戻ってきていた。その時は、私の思考プロセスは正常ではなかったので、単に自分が良いヒーラーなのだと自らに言い聞かせて、やり過ごしてしまった。しかし今になって、この火傷と私に起こった他の奇跡を考えるにつけ「一体何に踏み込んでしまったのだ?」と自問するのだった。
2002年末、長男のマイクが弟のミッチと住むためにアルバータ州に行った。そこでビジネスをスタートさせる望みを抱きつつ。彼らは二人とも夢中になれるものを探していたので、我々はハシシとオイルの薬用的使用について特化したウェブサイトを立ち上げることにした。その時には、私は仕事を定年退職していて、労働者年金と国民年金はついに支払うべき送金をはじめ、私は年金生活者となっていた。私の仕事人生は終わったが、息子たちには生活があったので、この件に関する情報を提供すれば、彼らが収入を得られるのではないかと考えた。当初、私は全ての情報を無料でインターネットに上げたかったのだが、息子たちは反対した。彼らが考えるうる限り、この情報には多大な価値があるので、1セット80ドルのコースにして売ろうと計画していた。私はこのアイディアをあまり気にかけていなかったが、彼らの言わんとしていることはわかったので、我々は全ての情報をウェブサイトに上げることにした。
私は彼らがウェブサイトに掲載しようとしているもののコピーを一部受け取ったが、そこには癌の治癒に関する記述が無かった。私は彼らに電話して不満をぶつけた「どういうことなんだ?コースで一番重要なことが書かれてないじゃないか。」彼らの返事は「父さん、ヘンプオイルが癌を治すなんて言えないんだよ。そんなことしたら、俺たちみんな大問題になっちまうよ。」私は完全に不賛成だったが、彼らの好きにするように言った。2003年の春、コースは元のままで、インターネットに上げられ、我々はカナビスカルチャーマガジンで手に入ることを宣伝した。結果としてwww.HashishAndHoneyOil.comは一銭にもならなかった。私は息子たちの努力が実るように、何千ドルもかけてサポートしたが、役には立たなかった。ウェブサイトは完全なる失敗だった。
私は息子たちの才能には敬意を払っているし、人間誰しも失敗を犯すものだ。私自身も確かに数々の失敗をしてきた。多くの場合、我々は経験から学ばなければならないことでもあるし。今回の事でプラスになったことは、息子たちが私の考えに反対することが、俄然少なくなったことだった。彼らはそうしたくなかったかもしれないが、ウェブサイトの失敗の後は、大抵私の考え方に沿うようにしてくれた。私は本気で、癌を治すオイルの能力について、全ての情報を加えるべきだと思っていたが、彼らがそうしないことにした理由も理解できた。
いくつかの国では、治療法を見つけたと公言するだけで、40年以下の懲役になる可能性がある。このナンセンスは公衆をニセ医者から守るためにあるはずなのだが、現実では公衆を、本当に有益で無害な自然療法から遠ざけておくように働いている。もし人々が真実を知るようになり、治療法として自然なものに帰ったとすると、大手製薬会社はもう化学物質や毒物を売れなくなってしまい、存在が消え失せてしまうだろう。自然な方法で自らの癌や他の病気を治した人は、誰でも、自らが使った治療法についてオープンに話し合うべきだ。そうすれば、みんなが利益を得られる。
2012年2月、私が癌をヘンプオイルで治してから9年が経ち、癌が実際にあったと証明する病理報告書も手元にある。私は癌の5年生存率を大幅にクリアし、癌は再発しなかった。そこで私には「はい!ヘンプオイルが私の癌を治しました!」と公言する権利が完全にあると考えている。この薬物を本当にたくさんの人に供給してきたので、自分達の病気にこのオイルが何をしてくれたのか、自由に話すべき人が、今や何千人と存在している。我々がこの件に関し沈黙を守れば守るほど、今まさに起こっている、我々自身が耐えなければならない罪業がどんどん増えていくだろう。