不死鳥の涙 ーリック・シンプソン物語ー 第2章
第二章 癌、希少でも致命的
ノバスコシアに戻ってから、元のゆっくりした生活のペースに慣れるまで、数か月を要した。1968年には大雪が降り、私は車道の雪かきと自分のオンボロ自動車を動かすのに、かなりの時間を費やした。ダンスに出かけることもあったが、大概夜はGib’s Snack Barにいて友達とくっちゃべっていた。
それは、スプリングヒルに戻ってきて一週間程のことだったが、ある夜Gib’sにいると一人の男が入ってきた。そいつは昔のいじめっ子連中の一人だったが、まだ私を小突き回すことができると思ったのだろう。私より5才年上だったが、望めばいつでも殴れる子供の頃の私とは違うのだと分からせるのに、数秒とかからなかった。彼が私を押してきたので、私はブチ切れ、バーの中をビンタして回った。数秒で彼は、私が思うがままに彼を殴れるのだと理解し、すぐさま、私の新しいスキルに感嘆して両手を挙げて降参した。その後の数週間で、他の格好をつけようとした2、3人の輩と同じことが繰り返された。その時私のパンチはとても素早かったので、多分目で捉えることもできなかっただろう。パワーパンチを使うのは避けていたが、それでもほとんどの奴は、私に火を付けるのは良策ではないとすぐに気が付いたようだった。
私がいない間に、スプリングヒル界隈には少し変化があったようだ。大麻喫煙は話には上っていたが、まだほんの一握りしか実際にその薬物を試したことのある人間はいなかった。当時の大多数と同様に私達は、依存症になるとか健康を害するとかいう類のポットに関する否定的なプロパガンダを信じていた。当時を振り返ると、いかに皆が初心で、大麻草に関して誤解を植え付けられていたか良く分る。数か月が過ぎた頃には、実際、友人全てが大麻喫煙者になっていた。勿論、彼らよりずっと〝スマート〟だった私は、専ら酒をドラッグの選択肢としていた。当時はこちらが正解だったのだ。ノバスコシアの警官達はポットに対して、トロントの警官と全く同じように振る舞い始めていたのだ。仲間の多くが警官に酷い目に遭わされ、何人かは犯罪歴が付いてしまい、良い仕事を見つけるのが難しくなってしまっていた。
なぜ警察が大麻喫煙者達に対して、そんなに粘着質になるのか私には理解できなかった。彼らは誰にも危害を加えていなかったし、何のトラブルも起こしていなかったのに。加えて、誰も死んでいなかったし、依存症になっている人間もいないようだった。なのになぜ警察は大麻のことになるとゲシュタポのようになるのだろうか?当時、私自身にとっても他の人間にとってもそれは完全に謎だった。私が大麻を喫煙するのを避けていた理由の一つは、その使用に伴うひどい咳だった。その頃の私は、その煙を吸い込むことで、肺を痛めている可能性があると考えていた。しかしその後、真実が徐々に明らかになってきている。ジョイント(紙巻き大麻)を吸うと、その煙は肺に吸入され、喫煙者に咳をさせ酷いと嘔吐してしまうのだが、これは一般的に、煙草も吸っているとさらに酷くなる。しかし実際は、大麻の効果を楽しむ者にとって、この効果は利益に成り得る。実はこの咳は、煙草を吸って蓄積しているタールや有毒物質を、吐き出させようとしているのだ。大麻喫煙者の肺は、何も吸わない非喫煙者の肺と同じ位きれいだという研究結果があり、しかも驚くべきことに、大麻を吸う人は生涯何も喫煙したことが無い人よりも、肺癌になる可能性が低いという。
スプリングヒルに戻ってから程無くして、私がトロントへ去る前に、一緒にダンスをしていた女性とよく出掛けるようになった。私達は親密になり、お互いに一緒に居ることが楽しかった。そして1968年の暮れに結婚した。今振り返ると、あんな若さで結婚するなんてどうかしているが、これこそ若気の至りというものだろう。同年代の知人の多くが、当時は同じようにしていたし、それが正しい事だと思っていた。だが悲しいことに、我々のほとんどが、愛とは、また結婚とは何なのか全く理解していなかった。私はハリファックスに仕事を見つけ、ダートマスに小さなアパートを借り結婚生活をスタートさせた。金を稼ぐのは大変だったが、その時は子供もいなかったし、共働きだった事もあり、何とか帳尻を合わせることが出来た。
1969年の夏、私達はいとこのデイブ夫妻を訪ねるため、トロントまでドライブした。その時は全てが上手く行っているように見え、我々は良い旅をしたと思ったのだが、自宅に戻ってから、デイブが癌に罹っていることを知らされた。自分が教えられた事実が理解できず、彼はきっと誤診されたのだと疑った。どうしたら、健康を絵に描いたような22歳の若者が癌を患っていると信じられようか。癌という病気について聞いた事はあったが、その時までこの病気で苦しんでいる人間を一人も知らなかったし、あの頃、癌はそんなによく聞く話ではなかった。私は、癌があるのは良くないということ以外に、その症状についてほぼ無知だったことを、認めなければならない。
デイヴィッドは胸郭に洋梨サイズの瘤を見つけたが、最初はさして気にしていなかった。どこか悪いにしても、その内に消えるだろうと楽観していた。何週間かしてコブが消えなかったため、彼は医者に診せに行った。瘤を見つけたときデイブの体重は90kg程あったが、広範囲の手術と治療のために、55kgまで減少し、顔色は前よりずいぶん暗くなった。そんな彼の病状を見ているのは、非常に恐ろしかったが、医師達は癌を全て取り除くことに成功したと請け合った。実際、彼はその試練からゆっくりと立ち直って来ているように見えたが、誰の目にも以前とは別人だった。
デイブが癌と闘っている間に、私は電気技師になった。様々な科目のコースを沢山とって勉強し、四級免許の試験に合格した時、私はノバスコシアで最年少の公認技師だった。これで少しは仕事が見つけ易くなったが、それでも収入は少なかったし、酷く忙しかった。1970年、北にある隔絶した現場での仕事を受けることにした。給料はかなりましだったので、余分に稼ぐ金で今より良い生活ができると考えたのだ。その現場は遠距離通信施設で、Pine Tree LineがDew Lineに接続する場所であり、核攻撃に対する早期警戒システムのために作られたものだった。
私の仕事は、ボイラーと暖房システムの世話と、冷却装置がスムーズに動くようにするために必要な、全ての修繕作業とメンテナンスだった。時たま、通信センターに上がって行って、そこで働く男達と話をすることもあった。ある日のこと、アラームが鳴って大きなスクリーンが赤く光っているちょうどその時に、私は通信センターに入って行った。そこで働く人間に、一体これは何を意味しているのかと聞いた。「赤い警報ってことは、奴らがアメリカに向かってミサイルを発射する準備ができたってことさ。」「今この時、ミサイル格納庫にいる連中が発射ボタンに指を置いているって言うのか?」彼は「ご名答」と答えた。そして私が彼に、どのくらいの頻度でこの赤い警報が発動するのか尋ねると、答えは「しょっちゅう」だった。キューバ危機や、アメリカとロシアの一触即発の事態について知ってはいたが、通信センターでのこの瞬間まで、こんな危機的なことが日常的に起こっているなどとは夢にも思わなかった。この出来事は驚きとともに私の心を訪れ、大きな不安を残していった。
一方で北方で過ごした時間は、私に素晴らしい思い出も残してくれた。木の無い岩肌が剥き出した土地で、母なる自然がどんなに苛酷足り得るかを見せられたが、それでも、そこには全てに美しさがあった。私は本来の自然な環境にいる北極ギツネを見たし、その内の一匹に手から餌付けしたこともあった。それから、間近でシロクマも見た。この生物は見た感じフォルクスワーゲンのビートル位の大きさがあり、できれば二度と出くわしたくないと思った。北の地で7か月を過ごし、私の留守の間に妻が出産した娘のロンダに会うため帰郷した。そして、この地域で仕事を探し、スプリングヒルに定住することに決めた。すぐに、オールセインツ病院でエンジニアの募集を見つけたが、ここは私がこの世に生を受けた、まさにその病院だった。給料はそこまで良くはなかったが、少なくとも自分が生まれ育った場所に住めるのだし、近所で安定的な雇用を見つけられたことは十分幸運だった。私と一緒に学校に通った人間のほとんどは、町を離れてしまっていた。この辺りには僅かしか仕事が無かったからだ。そんなこともあり、私は自分をラッキーな男だと看做していた。
ちょうどこの頃、私は初めて大麻草の花穂であるバッツの喫煙を経験した。スプリングヒルの老舗、Buffalo Clubでビールを飲んでいると、友達が車の中でジョイントを吸わないかと誘ってきた。ビールを飲んでいたことで、抑制が少しとれていたこともあり「やってみるか」ということになった。その時までに、他の人々が大麻を吸うのを見てきて、その効果が無害であること、依存性が無いことを知っていたし、ならば何をか失うものがあろうや?と思ったのだが、数分の内に私は車から出て、近くの野原で派手に嘔吐する羽目になった。当然、私はポットを悪者にした。気持ち悪くなる程飲んだビールのせいではなく。そして、多分大麻は自分の身体に合わないのだろうと勝手に思い込んだ。周りでは、さらに多くが大麻を吸うようになっていた。唯一の問題は、この植物を使用したかどで投獄される人間がどんどん増え、彼らに犯罪歴が付くことだった。実際、大麻喫煙者に対する警察の仕打ちに対して、私は腹を立てていた。私は自身ではこの薬物を使用しなかったが、その使用を楽しんでいる他の人々が、警察にあんな仕打ちを受けるべきではないと感じていた。
1972年夏、いとこのデイブが休暇で家に来た。この時、彼は体重を63kgまで戻す途上にあり、確かに少し具合は良さそうに見えた。しかしある日、話をしている最中に彼は私の目の前で崩れ落ちた。最初に考えたことは癌の再発だったが、そうでないことを祈った。だが案の定、トロントに帰り着くと、医者は彼にあと半年の命であること、他に打つ手が無いことを伝えた。彼には少し貯金があったので、彼とその妻そして若い息子は、スプリングヒルに戻ってきて運命を見守った。彼の容体が、坂を転げ落ちて行くように悪化するのを見るのは、家族全員にとって本当に辛かったが、助けるためにできることを誰も知らなかった。デイブは「生きる」という大いなる意志を持ち、最期までこの恐ろしい病魔と闘った。
私達は彼の体重が25kgまで落ちるのを見せられた。1972年11月18日、彼は息を引き取った。彼の死は私を粉々に打ち砕いた。私は「どうしてこんなことに?」と自問せずにはいられなかった。デイブは良き妻と若い息子を持ち、とても健康的な分別のあるライフスタイルを送っていた。それがどうしたら、屈強な若者がその全盛期に、こんな恐ろしい病気に打倒され、あんな酷い死に方をしなければならないのか?今現在でさえ、この時の事を思い出すと、その事実に対し感情を処理し切れない自分がいる。デイブが死んだ時、私は23才の誕生日まで12日足らずだった。その時までで私が知っている人達の内、癌によって死んだのは、彼一人きりだった。デイブの死は、この恐るべき病に関わる最初の経験だったが、不幸にして最後ではなかった。
デイブの死から2、3年経ったある日、病院の通用口から車で出ようとしたとき、アムハーストにあるローカルラジオのCKDHにチャンネルを合わせていて、ちょうどアナウンサーが報道記事を読んでいた。彼はアメリカ合衆国で最近なされた癌の研究で、マリファナの活性成分であるTHCに癌細胞を殺す作用が発見されたと言った。当然のことながら、このニュースの間じゅう、アナウンサーは馬鹿みたいに笑っていた。なぜかは説明できないが、あの頃、マリファナという言葉が使われる時は、どんなことが話されていようと、皆ジョークにすることを余儀なくされていたように思う。
直近にいとこを亡くしていたこともあり、アナウンサーの発した言葉が、私の心をとらえた。しかしあまりに珍妙なことに思われたので、誰かの悪趣味なユーモアセンスによる冗談だと思った。時が経つにつれ、この件に関して他に報道は無く、THCが癌細胞を殺したということについて聞くこともなかったので、ラジオで聞いたことは悪ふざけだったのだろうと考えた。その時は知らなかったのだが、この記事は本物だった。それは1975年にヴァージニア・コモンウェルス大学医学部の癌センターが行った研究についてだった。どうした訳か、このニュースは私の記憶の片隅に引っかかっていて、そうしてくれたことで後々、非常に助かることになるのだった。これはその未来において、私自身を含む大勢の苦痛を和らげ沢山の命を救うこととなる、かけがえのない貴重な情報だったのだ。しかし、この情報を役立てるに至るまでには、ほぼ30年の歳月がかかることとなる。
1970年代、私は3人の子供の父親だったが、妻と私の間には、お互いに対する不満がどんどん積み重なっていた。私は週に一度は酒に酔いつぶれる習慣ができてしまい、妻にもいくつか小さな欠点があった。私は子供達と過ごす時間もいくらか作ってはいたが、時間の許す限り森に入るようになっていて、これが妻との折り合いをさらに悪くしていた。物事が上手く行かない時、他人を責めるのは簡単だが、大抵の場合お互い様なのだ。
70年代中盤、私は二級電気技師になるために勉強していた。何年もかけて試験を受けるために必須の経験を積み、受験の準備をしようとしていた。私は仕事ができたし、その全てを理解していたが、この試験を受けるには数学の学力が足りず、どうしたらいいか困っていた。チャーリー・フザーという男が最近エンジニアとして病院に雇われ、私と友達になっていた。ある日、彼に数学で悩んでいることを打ち明けると、ただ笑って「俺のシフトの時にボイラー室に来てくれれば、教えるよ」と言ってくれた。彼は簡単そうに言ったが、私が学校を去ったあたりで導入された〝新しい数学〟には全然ついて行けなかった。代数学やら何やらは、とんと意味が分らなかったし、こんな状態で彼が本当に助けになるのか、疑ってかかっていた。試験は差し迫っていたし、どこにも行きようがなかったので、ある晩チャーリーのシフトにボイラー室を訪ねた。この時本当に上手く行くとはあまり期待していなかった。それから3時間でチャーリー・フザーは、新しい数学とさらにいくつかを私に指導した。どうやったのか説明し難いが、彼はただ全体を通じて、私の興味が掻き立てられるようにしてくれたのだ。その夜、私がボイラー室を出た時には、試験で出されるどんな問題も最早ジョークに過ぎなかった。
私は中学校でほぼ4年を過ごしたが、何も学ばなかった。そこにチャーリーが現れ、大学レベルの数学まで3時間で到達させたのだ。ついに私は、なぜ学校システムが自分に合わなかったのか理解した。私に勉強を簡単にこなす「脳力」が無かったからではなく、私に足りなかったのは適切な指導だったのだ。チャーリー・フザーは今まで会った内で最も卓越した教師だったが、電気技師を生業にしていた。惜しむらくは天職につけなかったのだ。私が学校に通っていた時分に、彼のような先生に出会っていたら、人生は全く違ったものだっただろうと想像に難くない。若かりし頃、父はいつも私が医者になることを望んでいた。父の望みを叶えてやりたかったが〝新しい数学〟が理解できずにどうして医者になどなれようか。ましてや、ろくに中学も卒業できなかったというのに。チャーリーとの出会いは私の人生を大きく変えた。そして我々は、彼が70代前半に癌で亡くなるまで親友だった。良き友であり先生でもあった人間を、当時でも治すことが可能だった病気で亡くしたのだ。
70年代中頃のある夏は、私にとってことのほか辛かった。およそ12人の良く知る地元の人間が、みな自動車事故で亡くなったのだ。我々の時代は暫くの間、自動車の死亡事故はとても稀だったが、突如として短い期間で、知人全員が事故死してしまったかのようだった。もちろん、彼らを死に追いやったのは大麻ではない。ほとんどのケースで犯人は、良質な昔気質の酒と無謀な運転だった。高速道路や町の道路で、飲酒運転が蔓延している問題を蔑ろにし、警察は大麻を所持していると疑わしい者は誰であれ追い回していた。どこかの時点で警察も目が覚めて、大麻が誰も傷つけていない、と気が付くだろうと思われていたが、そうはならなかった。
あの頃は、非合法薬物を試す人間が急増したが、それらの薬物の多くは非常に危険になり得るものだ。残念なことに、これらの薬物の影響下にある人を見ると、ほとんどの人は大麻のせいにした。古き良き大麻は、全てのタイプのドラッグにまつわる行動の元凶とされたが、実際には娯楽目的で使われた物のなかで、ただ一つ実害の無いものだった。結局これは上手くできたプロパガンダと腐敗がなせる業であり、大衆に対して大麻が危険であると、黒を白と言いくるめるために積極的に行使されたのだ。
1970年を通じて、私は血に飢えたハンターとなっていて、拳銃、ライフル、ショットガン等をはじめとし、手に入る射撃可能などんなタイプのものにも興味を引かれた。父と私は砂利採掘場の傍で標的射撃をして、素晴らしい午後のひと時を過ごしたが、この時の思い出は何物にも代え難い。父は戦争での負傷が元で、片腕がほとんど役に立たなかったが、私がライフル射撃を競った中で唯一、私を凌ぐことが出来る人物だった。私は森でかなり長いこと過ごしていたので、友達の中には私のことを「狩りキチ」と呼ぶ者もいた。毎年、狩猟期には許容量最大のシカや他の大型動物を簡単に仕留めることができた。もちろん肉は無駄にはしなかった。家族は狩りが成功した時は、ステーキやローストを楽しんでいる様だった。
その時は、何も間違ったことをしていないと本気で思っていた。私は田舎で育てられ、森に恐れを抱いていなかったし、一番近い道路から何マイルも離れていようが不安を感じなかった。私にとっては狩猟や森を彷徨することはとても自然なことだったが、今日では不必要な殺戮をせずに、それをできていたらと思う。生き残るために殺すのは仕方ない。しかし、私は定職についていて、罪のない動物達を殺さなくとも、家族を養うことが出来たのだ。他の多くの事と同じように、ときに、善い事か悪い事かを知るのには、しばらく時間が掛かる。
1978年、私は7年間勤めた病院を辞め、マッカン発電所に就職した。当初この転職は上手く行った様に見え、給料も断然良かったのだが、問題はそれが続かなかったことだった。マッカン発電所は3年以内に閉鎖される予定となっていたのだ。この時までに、私は交代勤務監督官になっており、更に大きな発電所での他の役職を確約されていた。そこでの給与は、病院で受け取るものよりも断然良かったのだが、そこで働くとなると、家族で新しい土地に引っ越し、他に家を購入しなければならない。そこで可能であれば、病院の仕事に戻ろうと決意した。幸運なことに、ボイラー室の人事に空きがあり、病院では諸手を挙げて「おかえりなさい」と言われることとなった。私はこの施設に対して、何か強い縁を感じていたから、まるで自分の家に帰ってきたかのようだった。
再度そこで働き始めてから間もなく、最初の結婚が終わりを迎えた。13ラウンドにしてタオルが投げ入れられたのだ。子供達に与えるであろう影響を思うと、最悪の気持ちだったが、仲良くできないことが明白で、結婚生活が茶番劇になってしまってまでも、一緒に居た方が良かったのだろうか?こんな風に生きることは、恐らく子供達にさらに悪い影響があると考え、私達は婚姻関係を終了させることを決定した。
離婚を経験した人なら誰でも、それが非常に堪えるものだと証言してくれるだろう。そんな時、離婚からものの数週間で、二番目の妻が来ることとなった。最初の妻と同様に、私は彼女を長い間知っていた。または、そう思っていた。最初は全てが上手く行っていて、続く1982年の夏に再婚した。だが一体何が起こったのか、さっぱり分らないのだが、私達が結婚した直後から、突如として二人の関係は、ばらばらになってしまったようだった。私達は結婚する直前まで一緒に暮し、とても幸せだったのが、結婚したその日から彼女は波が退くかのように遠くに感じられ、瞬く間に全く知らない他人と暮らしているかのようになった。半年で結婚は終了したが、今思えば、我々二人にとってそれが最善の選択だったのだ。彼女が探していた何が私の中にあったのか分らない、だが、お互いに運命の人で無かったのは確かだった。この時点で、私は結婚というスポーツをギブアップしたのだとの誹りを受けるかもしれない。だけれども、それはあまりにも高くつくし、精神的にハードすぎる、それでも努力し通す意味があるのだろうか。私の価値観では、答えなければならない誰かがいるより、独身でいる方がよっぽどましである。
この二年間に私に起きたこと全てが、頭を混乱させ神経を完全にぼろぼろにした。一番の問題は何をしても眠れないことだったが、そのためゾンビのような見た目になりはじめていた。私はどうにかしようと必死になって、当時あったロンサムチャーリーという弱いワインで、自分を治そうとした。そのワインは飲み易くはあったが、私の置かれた状況を改善するには至らず、睡眠不足は解消されなかった。ある日、近所の若い男二人が、家に寄って行ったのだが、彼らは私の様子を見てショックを受けていた。彼らの一人がポケットからジョイントを2本取り出して、テーブルの上に置き、これを吸うようにと言って去っていった。
過去の苦い経験から、私は大麻を使っていなかったが、なぜ彼らがジョイントを置いていったのか不思議に思った。皆が私は大麻を吸わないのを知っているにも関わらず、なぜそんなことをするのだろう?1970年代中頃、友達のデイヴィッドとマリファナブラウニーを食べたことがあったが、その時、私は全身が痺れたようになった。なんとかベッドに入った後、私は12時間眠りこけたのだった。自分が置かれた状況から、何も失うものはないと感じた私は、一本のジョイントを半分ほど吸って、14時間後に目が覚めた。この経験の後、これこそ必要としていたものだと気が付いた。この薬物がもたらす睡眠により、本当に生まれ変わったように回復したのだった。
私は2週間程の間、毎晩ちょっとずつ大麻を喫煙した。そうこうしている内に、私は見違えるように回復し、スムーズに日常復帰できた。私の大麻使用についての意見は、がらりと変わったが、それでも私は酒を飲むのが好きだったので、この薬物からは手を引いて、再び酒を飲み始めた。2週間のロンサムチャーリー以外で、私は自分の事をアル中だとは看做していなかったし、未だに週一度は好んで酔っぱらっていたが、だんだんと、酒は支払う対価が大きいと感じていた。35歳になる頃には、二日酔いは耐え難いほどのものとなり、ともすると一日では済まなかった。
その前後に、私はV65ホンダマグナを購入した。こういうパワフルなバイクと酒は相性が悪い。私は酒を飲む替わりにハッシュ(ハシシ、大麻樹脂)を食べ、少量の大麻を吸い始めた。私はスポーツ番組で90mのスキージャンプをそう呼ぶのを聞いてから、自分のバイクをビッグサンダーと命名した。選手達がそのジャンプを飛ぶのと、私がこの二輪の怪物に乗るのは、多分同じ感覚だろうと思ったからだ。そのバイクに乗るのは、まるでロケットスレッド(レールの上をロケット噴射で走るソリ)のようだったが、ハッシュの小さい塊を口に入れて45分位すると、バイクはゆっくりと走り、私は断然、理性的にこのマシンを運転できるのだった。多くの人が、大麻の効果は運転技術を障害すると断定しようとするが、これには賛成できない。このバイクに乗って、ハッシュと大麻の影響下で何千マイルと走ったが、全く問題無かった。
むしろ、体の中にこの物質がある時だけ、このバイクを適切に扱うことが出来るかのようだった。私の身体の中にハッシュや乾燥大麻が無い時に、このバイクでどこかに出かけると、決まって私は明敏さを欠くのだ。そういう訳で、私のケースでは、この薬物がパワフルなマシンを、より安全に扱えるようにしていると実感させられたのだった。ある夜4、5本のビールを飲んでから、このマグナに乗ろうとして、自宅からの車道で危うく死にかけたことがあった。これこそが「障害」の意味するところであり、こういう状態にある時、バイクはどんなものよりも即座にそれを見せてくれる。一度ハッシュと乾燥大麻の効果に慣れてしまうと、私は制限速度に敬意を示したし、誰も私がそれらを摂っていることを言い当てられなかった。この薬物の効果が、その人にとって新しいものである時に、その影響下で運転したとしても、公衆に大きな危険を及ぼすことは疑わしい。私が見てきたことから言うと、この薬物の影響下にある人間は、市販薬や処方薬、酒を飲んでいる者達より注意深くゆっくり運転する。それどころか、何も摂っていない人達よりも。
人々が普通に毎日飲み、さらに運転もしている、多くの市販・処方薬と同様に、アルコールは運動能力に悪影響を及ぼすが、大麻草の派生物は必ずしも運動能力を損なうものではない。もし、大麻に耐性を築いてから、その影響下で運転しているとすると、運転技術が損なわれることはまずない。私の経験からいうと、もし何かあるとすれば、むしろ大麻には運動能力を向上させる作用がある。身体に大麻がある状態で、スノーボードで金メダルを獲ったロス・レバグリアティを見るといい。僅かであっても運動能力に障害がある人間が、金メダルを獲れるだろうか。スノーボードというスポーツは、運動能力が適切に機能していなければ、とても上手くはできないものだ。または、大麻を吸うミュージシャン達に聞いてみるといい、彼らのパフォーマンスや創造力が、その使用によって増幅されていないか。繰り返すようだが、システムが我々に教えようとしてきた、運転に関する大麻の危険性は、真実からほど遠いものなのだ。もし全てのドライバーが、体の中に少量のヘンプを入れていれば、スピード違反も少なくなるだろうし、過激なドライバーの暴力行動もほとんど無くなるだろう。多くのドライバーがいい気分でいられるのだから。
少量のハッシュを食べることと、僅かに大麻を吸うことが、私の酒の消費量を劇的に減少させた。まるでアルコールの使用から、どんどん離れていくかのようだった。かつては好んで飲んでいた強い酒も、今やとても飲めたものではなく、飲むと死にそうなほど気分が悪くなるのだった。この時点では、このような結果をもたらす物質をほんの少量だけ使っていた。私は仕事のある週はこの薬物の使用を控え、休日を待ってその効果を楽しんだ。当時は大麻を買っていたが、だとしても、これまで費やした酒代に比べれば、断然安かった。週に1から2グラムしか消費しなかったから、購入しても出費は無視できるほどだった。私はそれより断然多くのお金を、毎週タバコに費やしていたから、私にとって大麻は全然高価ではなく、有害な悪癖でもなかった。ほとんどの知り合いは私が大麻を使っているなどとは、夢にも思っていなかっただろう。他の人達は、私がただ単純に酒を断ったのだと考えていたに違いない。結果として、私は以前より信頼に足る人間となった。
それからドライな(薬物が無い)時期がきた。1987年のクリスマスから1988年の9月まで、我々の地域ではマリファナが買えなくなった。何人かの地元栽培者がグラム当たり15ドルでリーフ(葉っぱ)を売っていたが、これは強さが足りなかったので、自分で栽培を始めることに決心した。なにせ、路上での供給は当てにならなかったから。私は大麻を育てるために考案された小さな栽培装置を購入して、6本の小さなプラントを育てた。この栽培装置は、非常に作業がし辛いことが分かったので、装置がもたらしてくれた僅かばかりの収穫を済ませると、バラバラにして、使えそうな部分は残しあとはゴミに捨ててしまった。安定的供給を得るのに良い方法を見出すまで、大して時間はかからず、この薬物を売っている人間の言いなりになる必要もなくなった。続く数年で、成功の度合いの異なる、小さな栽培設備をいくつか作ったが、どれも自家製にしては以前ゴミに出したプラスチック製の装置に比べ、断然生産的で作業もし易かった。