不死鳥の涙 ーリック・シンプソン物語ー 第13章

第十三章   大麻関連出版が腰を上げる

 2008年初秋、カナダの国会議員選挙が再度行われることになり、私に今一度立候補して欲しいというサポーターがいた。前回の経験からそれが単なる時間の無駄だと知ってはいたが、それで、この問題が全然解決していないことを、大衆に知らしめられれば、広く情報を届けることに資すると考え、出馬することにした。我々は書類準備のため関係各所に足を運び、所定の機関に書類を提出した。前回の選挙では、政治的なイベントを取り仕切っている者達が、私に喋らせたくないという事実を嫌という程見せられたが、今回はさらに露骨だった。私は全ての選挙期間を通じて、一度しか演説に呼ばれなかったのだ。だが、今回この問題や私が無視されることは、あまりストレスにはならなかった。どちらにしろ私には、各地に足を運び演説を行う時間が無かったからだ。助けを求めて私の所に来続ける人達に、何とか対応しようと手一杯だった。
 最初の選挙では524人が私に投票した。リック・ドゥワイヤーは今回の選挙で何票期待しているのか私に尋ねた。前回の選挙から2年が過ぎようとしていたが、その間、私の活動の知名度は断然上がっていたから、冗談で「525」と答えた。リックは笑っていたが、私が轟かした悪名を考えれば、もっと得票があるだろうと我々二人とも期待していた。開票結果が伝えられた時、私の記憶が正しければ、私の得票数は551票だった。私の周りにいる人間達は、もっとましな結果を予想していたから、こんなはずは無いと言い、誰かが数字をいじった可能性があると思っているようだった。私が会う人達は悉く、私に投票したと言ってくれていたから、こんなことが起こっていたとしても不思議ではないという思いは確かにあった。
 もし私のしている事を隠しておくことが、彼らにとってそんなに重要でないならば、期待していたよりも得票数が少なかったから、ただ負け惜しみを言っているのだ、と思われても仕方がない。しかしながら、過去にシステムが、どれほど常軌を逸しているか見てきた私にとって、開票結果が改竄されたのではないか、と疑うのは至極当たり前の事だろう。もし誰かがこんなことをするとしたら、その目的は一つである。それは私のしている事が世間に余り支持されていないと、大衆にメッセージを送ることだ。今日の選挙は公正に執り行われていない。否、今まで選挙が公正だったことが無いのだ。まだ若かった頃私は、投票所に茶色の紙袋に入れられたウイスキーやラムの酒瓶が差し入れられたのを、鮮明に憶えている。それは開票作業をする人間達に「正しい」計算をさせるための賄賂だったのだ。
 このようなことは、私が若かりし頃は日常茶飯事だったのだが、今日日それは大っぴらに行われていないにしても、現代の選挙がより公正に執り行われていると、本当に期待すべきなのだろうか。2000年のブッシュとゴアの大統領選から判断すると、改竄は未だ健在のようだし、これが前代未聞だということもない。これが私のケースで起こったと証明はできないが、このような重要案件の火消のためであれば、システムはどこまでも深く堕落し得るのだ。
 どちらにしろ私は、本当に国会議員に選出される可能性があると考えたことは無い。それはあまりにも突飛すぎる。もし私が当選したら、それこそ大騒動になっただろうし、私はそれまでしてきたように、オタワが今のままではいられないようにしたことだろう。そう考えると、私が国会議員になれる公算は万に一つもなさそうだった。結局のところ、今回の選挙も時間の無駄だったのだが、私がまだ活動を続けていて、誰も私が言うことに反証できていないことを世間に知らしめることは出来た。そして、多くの人々が私の明かしている真実の信憑性を認識し始めていた。
 もし私の言っていることが真実でないのなら、なぜ医療の専門家の誰一人として、立ち上がって私とオイルの正体を暴こうとしないのだろう?それは日々、人々にとって明白になってきているのだ。誰が彼らを欺いているのか、そしてそれは、リック・シンプソンではないということが。カナダの医師達は私をペストのように避けていた。最終的にそれは、彼らが自分達の患者の事を、僅かしか、または全く気に留めていないということの証拠となっているのだ。カナダの医師で、私に直接連絡をくれるよう頼んできたのは、たった一人だけだった。私は前立腺癌を患っている男にオイルを供給したことがあった。癌はステージⅣで骨まで転移していた。彼はオイルを取に来た時、医師から治る見込みは無いと言われていた。数日後、その患者は私に電話してきて、担当医が私と話したがっていると言った。その医師がこの治療に懸念を抱いていると。
 私はその医者のオフィスに電話を掛け、何が問題なのか尋ねた。「いえ、何も問題ありませんよ」と彼は答えた。「シンプソンさん、私はただ患者の経過について、あなたにお知らせを続けて協力しようと思いまして、それだけ伝えたかったんです。」ついに来た「こいつは本当に人々を治癒させたいと思っているのかもしれん」と私は考えた。彼の協力に感謝したが、言わずもがな、二度と連絡が来ることは無かった。この医師は患者に、この治療法に懸念があると話していたのだから、この治療薬に対する疑念を、患者の心に植え付けようとしていたのかもしれない。
 この医師は患者に、私と直接話がしたいと言ったが、実際にわざわざ連絡をしてくるとは思ってもいなかったに違いない。だがもしそうしなかったら、患者にこの治療が効果的でないと証明することになってしまっていただろう。自分の治療法を擁護しない場合そう捉えられても仕方がない。こちらが連絡することを躊躇わなかったことが、この医者には少しショックだったのではないか。それで彼は咄嗟に、患者の経過を私に報告し続けるなどという嘘臭い戯言を言って寄越したのだろう。3ヶ月後、その患者は連絡してきて、癌が治癒したと教えてくれた。自分の患者の末期癌が治癒するのを見たら、真っ当な医者だったら何かするはずだ。
 これと全く同様のシナリオが何度も繰り返し演じられるのをこれまで見てきた。カナダの医師の誰一人として、この治療薬の真実を明らかにしようとしなかった。そのため、それは他の人間達に認められ使われることになった。過去数回、患者の何人かは担当医が、私の所に彼らを送って寄越したのだと教えてくれた。その内2、3件は、私の所に来た患者が送った医者と近い関係にあるということだった。これらの医療専門家が患者に最良を望んだのだということは納得行くが、それではなぜ、もっと多くの患者が化学療法や放射線療法でこんなに痛手を負う前に、私の所に送られてこないのか?思うに、医師達は自分と近い関係の患者や気にしている患者だけを寄越しているのだろう。これは最低なことで信じ難いかもしれないが、医師のアドバイスを受ける時、白衣に身を包んだ輩達が、本当は腹の底で何を考えているかなど、我々は知る由も無いのだ。彼らは自分達の近縁者だけを、それで助けられるとよく知っている治療の為に送り出すのだろうか。我々の大多数には化学療法と放射線治療を受けさせておいて。これをどう判断するかはあなた次第だ。
 彼らはこの薬の使用を進めるために、何もしないか、したとしてもほんの僅かなのは確かだ。オイルによる治療中、自分達が使っている物が何か、医者に打ち明ける患者もいれば、治癒するまで待ってから話す患者もいる。私がこれを初めてから今まで、医師の通報によって警察と何かあった患者は、個人的に知る限り一人だけだ。実際は他にも沢山いるのだろうが。ノーム・ピーターソンは地元の男で、癌の治療にオイルを使用した。癌が無くなると、彼は担当医に何が起こったのか報告した。その〝善良な〟医師は、自分の患者がオイルで治癒したことに動転して、警察に通報した。暫くして、警察がノームの家に現れ、オイルの使用について質問した。ノームは使ったと答えたが、残りは持っていなかった。警官は彼に「それであなたの癌は治ったんですか?」と訊いたので、ノームはその通りだと答えた。すると警官は彼に微笑んで帰って行った。
 2月に私が判決を受けてから、警察は完全に手を出さなくなっていた。ヘリコプターで周辺を嗅ぎ回ることを除けば。私が警察官やその家族にもオイルを提供していたから、皆何が起きているか知っていた。彼ら自身が重病に罹るか、彼らの愛する者の命が危険に曝される時、警官達はこの薬の使用に対するどのような法律も、ゴミ箱に直行させるようだった。この事実は私に、少なくともこれらの法執行人達の中に、合理的思考能力を持っている人間が、幾らか存在することを証明した。この治療薬が魔法を起こした後、警察官達とやり取りする際はいつも、大麻草の見方を完全に変え始めたほうが良い、と彼らを諭した。彼らは、一様に賛成するのだが、残念なことに彼らは仕事上それを大っぴらに議論することができない。我々の健康と幸福に、こんなにも有益な植物を撲滅しようと目論む雇い主によって、 多くの警官は、自分達の学んだことについて沈黙を強いられている。
 私が良く思い出すのは、地元の警察官の娘のケースだ。彼女は8年間クローン病を患っていた。その警官とは長いこと知り合いで、彼は家に来て、オイルの治癒能力について彼が耳にしている事は真実かと私に訊ねた。「本当に効かなかったら、俺がこれを続けてきたと思うかね?こんなに痛い目に会いながら。」彼は笑っていた。それから医療システムが自分の娘に何をしたか語り始めた。彼女は12歳の時から何の改善も無く苦しんできており、病気は確実に進行していた。この父親は、早くどうにかしなければ、この大きな苦痛をもたらす恐ろしい病気で、娘が死んでしまうと感じていた。
 そこで、彼女を助けられる物があるとしたらオイルだけだろうと彼に言い、オイルのチューブを一本渡し治療を始めさせた。6週間後、彼は家を再訪し、娘の病気が完治したことを教えてくれた。6gのチューブ一本が彼女を医学的問題から解放し、今や彼女は普通の人間としての生活を取り戻したのだ。この様な成果は、その警官が病気を抱える多くの友達や同僚に、オイルが起こす奇跡について、話して聞かせることを期待させる。だが、おしゃべりが過ぎれば、彼はその対価を失業という形で支払うことになる。私の知る限り、現在この警官は既に現役を退いているが、無用な批判を避ける意味でも、ここで彼の名前をあえて明かす必要はないだろう。もし同じような状況にあったとしたら、誰だって同じ事をするのだから。ただ、その必要があれば、私の話が本当であると、その警官が証明してくれるのは間違いない。
 法執行機関で働く人間達は、いつもお馴染みの使い古された言い訳を使う「我々は職務を遂行しているだけだ」と。私に言わせれば、彼らは政府の為に虐殺という職務を大いに全うしているが、果たしてこれは、我々の社会で彼らの果たすべき役割なのだろうか。警察官として公衆に仕え、これを守るために雇われた人間達は、誰のために働くべきなのか誤解しているようだ。人々を癒すことができる自然薬を人々から盗むことは、公衆に仕えていることにはならない。その当時、恐らく50%の地元警察官は、私を放っておくことを望んでいた。違法だろうが合法だろうが、家族に健康面での災難が訪れた時のため、本当に助けになる人間を傍に置いておくことは、悪い考えではない。しかし実際そうであっても、それは彼らの同類が続ける、薬用目的で大麻栽培を行う者達への襲撃を、止めさせるまでには至っていなかった。
 2008年の晩秋はとても気の滅入るものだった。エディー・レップが10年の懲役で刑務所に送られた。私はエディーを擁護する手紙を書いたが、相手にされなかった。エディーのような人類を助けようと努力してきた人間を刑務所に送るとは。我々のシステムの崩壊はここに極まったと言うしかない。ジャックと私はこの事件に激怒していた。ただ植物を育て、それを使ったという単純な行為に対する罪で、何百万年もの時間が刑務所で既に務められているのだ。このような大勢の人々を刑務所に送り込んだ人間達の方こそ、無実の罪で人々を監禁したかどで服役すべきだろう。だが、我々に何ができようか。物事を変える程の人々の支持をまだ得られていないというのに。
 2009年1月、私は数人の支持者と集まり、来る夏にカナダ全国公演ツアーに挑むべきだと決定した。どうせ夏までは、我々の地域で治療薬を作るための原料は手に入らないのだから、挑戦してみない手は無い。カナダツアーはこの問題を大々的に喧伝するのにもってこいに思われた。それで我々はインターネットに募金の広告を出した。結果は散々だったが、春までに2900ドルが集まった。私にはこのツアーを完遂するにはもっと多くの資金が必要だと思われた。我々は大々的に宣伝したセミナーを全国28都市で催す計画を立てていて、私は4ヵ月間旅をしなければならないはずだった。
 そのような冒険を高々2900ドルの資金で行おうとすれば、狂っていると思われるだろう。ツアーは取り止めとなり、人々に何が起こったか説明し、謝罪をした。我々が思っていたようなツアーを成功させるには、一般的な家一軒位の資金を捻出する必要があった。残念ながら、我々が受け取った寄付金2900ドルでは、そのような催しの会場設営すらできないのだ。人々に情報を届けるために、私に出来る事といえば、資料を頒布することと、セミナーのビデオをインターネットに上げ続けること位だった。
 ツアーが中止されたことをジャックは残念がっていた。彼は「ツアーをやれよ、リック、重要なことだ」と強調したが、資金が無いから不可能なのだと言うしかなかった。ツアーを始めるには、まずブリティッシュコロンビア州のバンクーバーまでの4500キロを運転する必要があった。ブリティッシュコロンビアの人々は、この件に関してかなり理解があるということもあり、これは外せないことだった。そこからツアーを始めれば、成功の確率はぐんと高くなる。私はセミナーを入場無料にすることで、より多くの人に来てもらおうと企画していた。我々は成功のためにホールを借りたり、宣伝を打ったりすることはおろか、自分達をツアー中生き延びさせておく資金にすら、事欠いていたのだ。私の説明で遂にジャックは折れたが、本当に残念がっていた。この件に関して私には選択の余地は無かった。それに、もしツアーをするための資金が調達できたとしても、政府が我々の道中に出来る限りの障害物を投げ入れてくるのは確実だった。これが頭にあったので、結局のところ、長い目で見ればツアーは中止したほうがよさそうだ、という所に落ち着いた。
 2009年の冬は私にとって非常に忙しいものとなった。私はあらゆる方面から訪問を受けた。元アメリカンフットボールのスター、エリック・アフォルターがカリフォルニアから運転して大陸を横断して来た。私に会って使用している製造工程を見るためだけに。エリックは素晴らしい男で、我々は友達になり、家に一週間程滞在していった。合衆国に戻る頃には、彼は完全に改心していた。オイルが起こす奇跡を自分自身の目で見、その完全な信者になったのだ。また、ジョーダン・フィエーロという名の若者も私の家で一週間過ごしていった。彼はジャック・ヘラーと関わりがあり、我々を撮影し、インタビューして帰った。
それから、イボンヌ・ポーランドという女性写真家がイギリスから来たのだが、この時は私の支持者の一人が、数日間彼女を世話してくれた。彼女は沢山の写真を撮っていったが、彼女は素晴らしい写真家であると同時に、非凡な料理人でもあった。イボンヌは菜食主義者だったが、肉がたっぷり使われているとしか思えないような料理を作ることができた。彼女はイギリスに去ってから、私のしていることをデイヴィッド・アイクとマックス・イーガンの関心事とするために頑張ってくれた。この件に対する彼女の貢献は、大きな助けとなった。
 これと同時期、仲間の一人が連絡して来て、私が聞く必要のある歌を見つけたと言った。それはHuman Revolution(人類の進化)というバンドの『Tree of Life(生命の樹)』という歌だった。その歌の歌詞を聞いて、本当に衝撃を受けた。彼らはジャックや私がずっと言い続けてきたことを、全て音楽にしていたのだ。この植物について歌った曲は数多あれど、Tree of Lifeに比肩するものは聞いたことがない。私の認識では、このバンドを率いているHumanという若者が自分でこの歌を作詞したようで、私は熱狂的なファンになった。フルバンドで演奏されているこの歌は、素晴らしいとしか言いようがないが、他のバージョンもあって、そこではHumanがソロで、大麻畑の中、のびのびとギター一本で弾き語る。このバージョンが私は大好きだ。もし暇があったらインターネットでこの歌を聞いて欲しい、そうすれば、この歌が我々の活動になぜそんなに重要なのか分かるはずだ。
 全ては上手く行っていたが、一日の時間が足りないと思う事が何度もあった。いつも通り、私は周辺何キロかの良質な大麻を買い占めていたが、最近、患者に切望されるこの治療薬を製造するのに必要な、高品質の原料を見つけるのが難しくなり始めていた。2009年冬のある日、私はまたダルハウジー大学でセミナーをしていたが、聴衆の一人が私に叫んだ「リック、あんたのオイルの製造マニュアルがWeed World(ウィードワールド、草の世界)紙に掲載されてるよ。」寝耳に水とはこのことだろう。私は世界で最も購読されている大麻関連出版の一つが自分のオイル製造マニュアルを出版したと告げられたのだ。
 その日セミナーの後で、私はウィードワールド紙の第79号を一部購入した。確かに、そこには記事があった。今まで何年もこの活動を続けてきたが、誰もこの話題で出版する気は無いのだと思っていた。しかし今、驚くべきことに、ウィードワールドが一歩を踏み出し、私のマニュアルを私の知らない所で出版していたのだ。彼らが許可を取らなかったとしても、私には全く問題ない。否、むしろ彼らを祝福したい。真実を白日の下に曝し、大衆の注意を集めた最初の大麻関連出版として、ウィードワールドに称賛を送ろう。
 確かこの頃、ジャスティン・カンダーから電話を貰った。過去に何度も話したことがある米国の若者だ。彼はマーク・エメリーと連絡を取り合っていて、マークは彼に、私の活動についての詳細な記事を書かせたがっているということだった。私はジャスティンに喜んで手伝うと請け合い、彼に事の顛末を語って聞かせた。私はマーク・エメリーと過去にどのようなやり取りがあったかも彼に説明し、彼に語ったこの記事が、カナビスカルチャー紙で出版されるか怪しいものだと伝えた。ジャスティンは記事を仕上げ、マーク・エメリーに送ったが、私が知る限り、これが印刷されたことは一度もない。
 2009年晩冬、ネイティブ(先住民)の血を引くスタン・カストングアイというニューブランズウィック州の男が会いに来た。「私は自分の命を救ってくれた男に、直接会わずにいられなくて来たんだ。」と彼は告げた。数か月前、彼はスコット・カリンズと連絡を取り、自分の末期癌を治療するためオイルを手に入れ、いまや完治していた。スコットは世界中から人助けの為に連絡をくれる大勢の有志の一人だ。勿論ほとんどのケースで、オイルを無料で提供することは出来ないから、患者は費用を捻出しなければならない。だがそうだとしても、彼らは少なくともこの治療薬を入手可能にしている。
 スタンはニューブランズウィック州のセントアンに来てセミナーをやる気が無いかと訊いてきた。彼は私に大勢の人々を集めることができると請け合って、スコットも参加するだろうと言ってくれた。私は承諾したが、セントアンまでは車で5時間もかかる。それでもセミナーがやりたかったし、この機会にスコットの顔を直に見てみたかった。イベントは大成功を収めたが、それに加えて幸運なことに、お偉方の族長達と面識を得て、充分に話すことができた。また私はスコットとも色々なことを話し、彼からとても良い印象を受けた。
 マーク・アレンという仲間の一人がセミナーに参加するために一緒に来ており、帰り道にスコットの家に二人で寄った。ここでもより深い話し合いをすることができた。私は最初にスコットに会った時からこの男のことが気に入っていた。彼の心が正しい場所にあるのがはっきりと見て取れた。彼が望むことは人助けだけで、簡単に稼ぐことができたであろう金のことは、全く考慮していないようだった。こういう心構えの人々とは、ごく簡単に仲良くなれるものだ。衝突するものがなく、目的がとても似ているからだ。このセミナーを行う機会を与えられたことと、和んだ雰囲気の中でスコットと会えたことがとても嬉しかった。
 その時、私にはヨーロッパ、アフリカ、南米、米国、カナダや他の国にオイルを供給するボランティアがいた。残念ながらこれらの供給者の中で直接会うことができたのは、スコットだけだ。他国の人々が連絡をくれるとき、1パウンドの原料を手に入れ、自分自身でオイルを作ってみるよう勧めている。それでも必要とされる原料のバッツを手に入れる良いツテが無く、精製済みのオイルを提供してくれないか、と頼まれることはしょっちゅうある。そういう場合私は、患者に連絡してきた人の所へ行ってもらい、治療薬の提供を申し出る。こういう連絡を受けるときは、他所で手に入れるオイルの品質や、取引の慣習について、私は一切責任を負うことができないと、明言するようにしている。多くの人が、私を世界規模でオイルを提供する国際的組織の親分のように考えているようだが、それは現実に全くそぐわない、ただのイメージでしかない。
 全体的に当初、物事はまあまあ順調に進んでいたと言えるし、多くの人が助けられた。時々私はクレームを受けたが、そういう時、提供者が間違っていると感じた時は、彼らに電話を掛けたものだった。最初の頃はこの方法が効を奏し、多くの状況が簡単に解決した。当時の供給者達は、取引する客を私に依存していたからだ。私の希望にそぐわなければ、他に誰も送らないようにするだけで充分だった。私にとっては、提供されるオイルの品質だけが全てであり、もし彼らが正しい方法で、高品質のオイルを提供しないのであれば、ただ患者達にそれ以上連絡をとらないよう指示するだけだった。もし私が供給者達に可能な限り最高品質の薬を提供するように強調しなかったら、生きるはずの者達が死ぬことになり、医療用大麻は相応しからぬ悪評を得ることになる。不幸なことに、クレームの数は増え続け、ある時点から、私は他で供給される物のほとんどが、全然信用できなくなってしまった。最終的に、他の国の人々に対して私ができることは、自分達で精製するのが最良だと話すことだけだった。
 しばしば費用の問題も持ち上がり、人々は供給者達が治療にどれ程の金額を要求するのか、いつも私に質問するのだが、これについては、供給者が原材料にいくら払わねばならないかに完全に依存するのだと私は説明していた。ニューヨークに住むある女性が、治療薬を作るため、良質のバッツ1パウンドに7500ドル払ったと聞いたことがある。私に言わせれば、そのような高額の請求は強盗と同じだが、自らの命が危険に曝されている時、他にどんな選択肢があるだろう。私は栽培者やオイル製造者に対して絶えず、必要とする人々が原料や治療薬を手に入れられるように、価格を可能な限り低くするよう鼓舞している。我々はこれがヒーリングであることを常に意識しなければならない。欲が絡んだ瞬間に、ヒーリングは手をすり抜けていってしまうだろう。
 2009年の晩春はてんやわんやだった。ジャック・ヘラーが連絡をくれて、第12版の「裸の王様」に文章を書かないか、と言ってくれた。私はジャックの申し出に恐縮するばかりだった。この本は私のバイブルになっていたからだ。ジャックは、大衆へ声を届けるための新たな方法を、自らの素晴らしい傑作をもって示してくれていた。嬉しいなんてものじゃない。ヘラー氏は私の残りの人生に、大きな衝撃を与えようとしているかのようだった。これと同時期に私はウィードワールドからも連絡を受けた。彼らが計画している特別号に、オイルに関する記事をいくつか書いてくれというものだった。彼らの要求を満たす文章は35ページ程になり、9月に出版されたウィードワールド特別号は、私が提出した五つの記事を掲載した。この特別号は非常に良い出来だったし、こういうものが切望されている時勢だった。
 それから大物が掛かった。チェコ共和国のJindrich Bayerイェンツェフ・バイヤルがチェコの大麻関連雑誌Konoptikumの質問に答えてくれないかと言ってきた。彼は近隣の国の出版社も、私に記事を書かせることを考えている、とも教えてくれた。私は即諾した。だが、答えるべき質問を受け取った時、危うく椅子から転げ落ちそうになった。質問は何ページにも及ぶものだったのだ。暫くそれに掛かりっきりになることは間違い無かった。私の記憶では、裸の王様12版のため、私はジャックに40ページの文章を送ったが、イェンツェフの質問への回答は70ページ必要だった。
 これで私は、書痙という言葉の意味が良く分かるようになった。私は助けを求める人々への電話対応に追われ、今や全ての人への責務を果たすため、何週間分もの書き物を前にしているのだ。なんとかして電話と来客の間を縫って時間を見つけ、書き物を仕上げ、質問に対する回答を書類にし、それが行くべき所に送り届けた。ジャックが電話して来て、送られた文書を読んでゴーサインを出した、と言った時のことは一生忘れないだろう。私が史上最も重要な文芸作品と目する著作に、この主題についての私の言説が載せられるのだ。これ以上に嬉しいことなどないだろう。
 2009年春、私は「Freeman on the Land(フリーマンオンザランド、土地の自由人)」運動のメンバーと連絡をとった。それ以前に、この運動に関するロブ・メナードのドキュメンタリーを見るため時間を割いていた。最初、それは少しクレイジーだと感じられたのは確かだが、彼の分析を知るにつけ、より興味を引かれるようになった。そしてある日、私はノバスコシアのサックビルに住むダレルという名の男から電話を貰った。そこで私は近日催される「自由人の会」に招待され講演を依頼された。その日私は、この治療薬の素晴らしさについて講演した。当然のことながら、出席者の中には健康問題を経験した人達が大勢いたから、私の話は大いに彼らの興味を掻き立てた様だった。会合の終わりには、参加者の多くが健康問題にどのような効果があるか試すために、オイルを持って帰った。
 一ヵ月後に開かれた次の会合で彼らは、この治療薬が自らの病状に及ぼした素晴らしい効果について、口々に話していた。彼らのオイル使用の体験談を楽しんで聞いていたが、それよりも、このフリーマンオンザランド運動が何をするものなのか非常に興味が湧いてきていた。この件について、かなり情報は集めていたが、他の事に忙殺され、それを読んでいる暇が無かった。その「土地の自由人」になるということは、古いコモンロー(慣習法)体系下に戻るということらしい。そしてそこでは大麻栽培は犯罪ではない。システムとやり合って来た私にとって、これは非常に良い事のように思えたので、直ちに「署名させてくれ」と言うことになった。その後すぐ、全ての書類は適正に処理され、反対の声が上がらなかったので、今や私は、この「土地の自由人」となった。
 実際私は忙しすぎて、その夏の作付けができそうにないと感じていた。しかしながら、私が所有する書類のおかげで、私の法的地位は全く異なるものになっていたから、私が望むなら、どれだけ沢山の大麻を育てようと、警察に邪魔されることはないはずだった。通常、6月の初旬には大麻の苗を畑に植えているものだったが、発芽時期などのことがあり6月末になったが、裏庭に250本の大麻畑が完成した。
 作付けが終わってからすぐ、ジミー・フリンから電話を貰った。彼はとても人気のあるカナダの芸能人でコメディアンである。その数週間前に彼は私の家を訪問していた。その時の話では、彼は12年前に息子を癌でなくしていたが、私の説明を聞いて、当時この薬があれば自分の息子は助かったかもしれないと考えた様だった。ジミーは即座に私の支持者になってくれた。彼の電話は、現在進行している沿岸地区ラジオの人気番組で私の事が触れられたというものだった。ジミーと彼のマネージャーが番号をくれ、私は番組に電話を掛けた。彼らは私が誰だかわかると、20分間番組の時間を割いてくれた。
 ある時点で、番組司会のトム・ヤングが、今年も大麻を育てているのかと、私に訊いた。私は答えて「いつも通り、裏庭で絶賛栽培中さ」と言った。彼は更に「でも、許可されてないんでしょ」と訊いてきたので、今の私はこの「土地の自由人」であって、コモンローの下にあり、そこでは大麻栽培は犯罪ではないのだと説明した。記憶が正しければ、この時私は、自分の所有地を囲む、合計1500エーカー(約180万坪)に及ぶ、三つの土地を自分の名前で登録することも話したはずである。トム・ヤングの番組はカナダ沿岸諸州で非常に人気があり、私が知る限り、番組は数回放送された。私の出番が終わると直ぐに、ジミー・フリンが登場して私の活動を援護してくれた。さらには、末期癌をオイルで治療した患者が電話出演し、自分の経験について話をした。結果的にこの番組は非常に良い影響を及ぼした。
 この時私は何が起こるか全く想像もつかなかったと認めねばなるまい。この放送で、私は沿岸地区の全ての警察に、自分がまた裏庭で大麻栽培をしていると公言したのだ。もし連邦警察がまた来るとしたら、今だろうと私は考えていた。まあそうなったとしても、彼らがそれを盗みに来るのを、夏の間中、番犬のように見張ることはないが。そしてこれは杞憂に終わった。警察を含む誰もが、そこに大麻があると知っていたのに、結局誰も現れず夏は何事も無く過ぎた。さらには、この時期、連邦警察の友達から、私の所に治療に行くように言われた、という患者が二人、オイルを求めに来た。ここに来てどうやら遂に私は、誰にも干渉されずに済むようになったのだ。
 私の支配下になる固有の所有地について、私の構想を実現するには、地元インディアンの酋長から許可を得る必要があった。もし、インディアンネイション(先住民国家)の代表者達が応じ、これらの所有地を私の名義にすることに異議がでなければ、我々はノバスコシア州カンバーランド郡にまあまあの大麻大農園を作ることができるだろう。もし私が教えられたことが真実であれば、この土地は国家の中の国家として位置づけられ、カナダ政府は干渉することができない。この1500エーカーの所有地では、連邦警察ではなく私が法となり、その土地の司法権は私に委ねられる。私の記憶では、これらの所有地に関する情報は、私が自分をこの「土地の自由人」と宣言した時に当局に送られたはずである。
 私はこの書類を政府の色々な部門に送り付けた。総理大臣官邸と地元の連邦警察支部にも。彼らの誰からも、私にこれをする権利があるということに対し、異議を差し挟む返事を受け取らなかった。現在この土地を所有している者から、私が所有地を購入してしまえば、この土地は完全に私の支配下になる。私はこの土地を所有している人達を知っているし、彼らもこの治療薬を支持してくれている。彼らが喜んで応じてくれるのは確実だ。
 残念なことに、2009年秋に最後の連邦警察の襲撃を受け、流浪の身となってしまう前に、部族のリーダーとこれを調整する時間は持てなかった。これから先、私は先住民のリーダー達と連絡を取り、詳細を固められるか試してみるつもりだ。上手く行けば、変化の第一歩を目撃することができるだろう。過去にカナダ政府と散々やり合ったことを思えば、カナダの中に国境を配して、自分自身の小さな国を持つことが、唯一論理的な行動ではないか。これが達成されれば、私は誰からも邪魔されることなく、自分の調査を遂行することができる。これこそが私が安心して帰還できる唯一の方法だし、同じ状況にいたら、それ以外有り得ないことが、誰にでも理解できるはずだ。