不死鳥の涙 ーリック・シンプソン物語ー 第9章

第九章   留置場での週末休暇

 2007年夏に私は、アムハーストの若い女性にオイルを1チューブ提供した。彼女は仕事のストレスで休職しており、腰痛にも悩まされていた。オイルの効果は絶大で、彼女はすぐに仕事に復帰し、私の支持者になってくれた。しばらく彼女から連絡がなかったので、電話してみたが、繋がらなかった。そこで2007年11月20日だったと思うが、私は彼女の家にオイルを持って行ってみた。
 その時彼女は不在だったので、私は彼女に渡してくれるよう、母親に頼んでオイルを置いてきた。金銭の授受はなく、その要求もしなかった。私は無償で彼女に治療を提供していたからだ。その時私は知らなかったのだが、彼女の母親はすぐさまアムハースト警察を呼び、私が彼女に残してきたオイルを彼らに渡したのだった。この治療薬は彼女の娘にとって大きな助けになったのだが、この女性は警察を呼んだ。「恩を仇で」とはこのことだろう。
 理由は分からないが、私の判決日は次の年の始めまで持ち越されることになった。それでも私は11月30日に出廷する必要があり、判決日延期の告知をうけるため法廷に着くと、販売の罪で私を再逮捕するために、二人の警官がそこで待っていた。これらは全て金曜日に起こった。私に週末を留置場で過ごせと言うことなのだ。事件は週明けまで審理されないのだから。不思議なことにカッチオーネ判事は、この日何が行われているかを知ったとき、アムハースト警察がしていることを喜んではいないようだった。私の判決は日程変更され、二人の警官に伴われ、アムハースト警察に出掛けることとなった。その日私を事情聴取した警官の両親を、私は子供の頃から知っていた。彼は良い家族の出だったので、半分はマトモな人間だろうと思っていたが、続く数ヵ月で、このティム・ハンターに対する印象は急激に悪化した。
 警察署で、時間の無駄でしかない恒例の儀式の後、私はついにアムハーストの郡留置場に連れて行かれた。到着すると私は待機房に入れられ、手続きが済み収容房に移されるまで、そこに留まることになっていた。私が待っている間、他の収監者が連れて来られ、隣の房に入れられた。看守は「シンプソンさん、すぐ戻って来ますから。」と言って出て行った。その収監者は好奇の目を私に向け、私がリック・シンプソンかと尋ねてきた。そうだと教えてやると「あんたはヒーラーだろ。こんなとこで何してんだい?」と彼は訊いたので「自分に同じ質問をしていたところだよ」と私は答えた。その時、看守が戻ってきて、私を収容房に案内した。そこで私は4人の同房者と一緒に小さな部屋に閉じ込められた。
 数分後、廊下の先の方から私の注意を引くため、さっき一緒にいた若者が私の名前を呼んだ。私は鉄の扉の格子付き小窓から答えた。彼は名前を言ったが、私には誰だか見当がつかなかった。そこで、彼の出自を尋ねると、母親の名前をくれたので、ようやく彼が何者なのか分かった。「お前さんは、脳腫瘍だった子だろ。」母親がオイルを取りに来ていたので、彼とは直接面識が無かったのだ。それで待機房に一緒にいたのに誰か分からなかった。彼にここで何をしているのか訊くと、彼は「週末のお務め」だと答えた。
 「癌はどうなった?」「全く問題ないよ。」我々は数分の間、彼の治療について会話した。私は小窓から離れ、振り返ると、同房の4人がすぐ目の前にいた。後ろに集まって、ドア越しの会話を聞いていたのだ。「あいつらは何を考えているんだろうな。あんたみたいな人を閉じ込めるなんて」と一人が言った。私は肩をすくめて「神のみぞ知る」だよ、と答えた。しかし、本当はハッキリしていた。私がここにいるのは、権力の最上部が腐敗しているからなのだ。
 時間は余る程あったので、我々5人は知り合いになり、私は皆のことが気に入った。何時間かが過ぎ、誰かが鉄扉の小窓に来て「薬!」と怒鳴った。その途端、4人はドアに殺到した。彼らが戻ってきたとき、彼らに尋ねた「この薬云々ってのは一体何なんだい?」彼らは健康そうに見えていたから、なぜ薬を必要としているのかピンと来なかった。教えてくれたところによると、私が次の週まで留置場に留まれば、医者の診察を受けることができ、どんな薬でも手に入るということだった。睡眠薬、痛み止め、なんでもござれだ。私はただ頭を振るしかなかった。
 消灯の号令が掛かり、我々は自分達が居た小さなメインの部屋から別れた、五つの独立した小部屋に移り、鉄扉が我々の後ろで閉まった。収容房に移ってからというもの、室温はとても暖かかったのだが、私が寝る小部屋は暖房が強烈過ぎた。私は暑すぎるとよく眠れないし、睡眠を補助するオイル無しで閉じ込められていた。ついに暑さは我慢の限界を超え、私はベッドの薄いマットを引き剥がして、床に直に敷きその上に寝てみた。そして分かったのだが、暑さはセメントの床から来ていたのだ。その夜ほとんど眠れなかったのは、言うまでもない。
 次の日も同じことが繰り返された。「薬!」囚人達は鉄扉の小窓に飛んで行き、錠剤を受け取るのだった。数分後に私は彼らに訊いた。「あんた等の誰一人として、ここにいるべきじゃないと気付いているかい?あんた達は自分達の環境の産物でしかないのさ。」すると面白いことに、全員が首を横に振った。多分、彼らは自分達が間違ったことをし、彼らに起こっていることは、その報いだと思っているのだ。「あんた達皆、ここにいるのはドラッグ絡みだろ。違うか?」と指摘すると、全員がその通りだと認めた。
 私は42歳の最年長者を見て言った。「あんたが育ったのはハードドラッグ世代だ。あんたが十代だった80年代に、ハードドラッグや処方薬がこの辺の路上に出回り始めた。これがあんたの人生に法律が絡んできて、最初に監獄に入るきっかけになったんじゃないか?」彼は「その通りだ。」と答えた。「これらの薬物がこうもすんなり手に入るようになったことをどう思う?あんたは本当に、政府がそれらを路上から排除することができなかったと信じているのか?俺達が怪しい場所に行ったとして、ハードドラッグを取引している人間達を見つけるのにどれだけ時間がかかる?もし我々が、それを自分達でやったとしたら、一ヵ月足らずで見つけられるんじゃないか?」彼らは同意した「そうだな。多分かなりの確率でできるだろう。」
 私は続けた「我々でさえそういったことができるとしたら、財源がたっぷりある警察が、誰が何をしているか探り出すのに、こんなに苦労しているように見えるのは一体何故だ?実際は、システムがあんた達に、危険なドラッグが手に入るようにしているからなのさ。そうすれば、あんた達を簡単に支配することができる。全部彼らの収入と仕事の為なんだ。あんた達は単に雇用創出計画の一翼を担っているのさ。」私は自分の話を明確にするために付け加えた「たまに、これらの薬物を使っている人間の行動が、他の市民を恐怖させることがある。世間は自分達の安全の為にもっと監獄を建て、この惨状をコントロールするために、もっと警官を増やさなければ、と信じさせられる。警官達は、街から危険な薬物を排除するという、給料分の仕事をする代わりに、起こっていることに目をつぶり、人々が処方薬や他のハードドラッグに手を出すのを許している。それで依存症になり、薬を続けるために犯罪に走る。」
 「遅かれ早かれ、これらの薬物を使う人間は捕まって牢に入れられる、そこでも再び、医者によって、有害で危険な依存性の薬物を処方される。刑期を務め上げて、更生され、それから社会に解放される。それから何が起こる?あんたら真人間になるのか?やっと自由の身になったとして?大体がすぐにまた刑務所に戻ってくる。自分達の依存症に必要な薬を買う金を得るために、犯罪に手を染めなければならないからだ。あんた達がまたもや逮捕され、厄介事を起こさないように投獄されることで、世間は安眠できるって訳さ。本当は、奴らがあんた等をプログラムしてきた通りに、あんた等は行動してるのさ。システムが肥大するために、民衆を恐れさせておくための〝犯罪〟が絶えず必要なんだ。システムがあんたらに中毒になることを望み、依存症を維持するため罪を犯すことを要求しているんだ。自分達のしていることが、大衆に見栄えがするように。」
 見方によっては、医学もこれと大差ないのだ。実質的に医者のほとんどが、単なる製薬産業のドラッグディーラーに過ぎず、自分達の患者にどんな害があるのかなど、気にも留めていないように見える。これこそ、私が囚われている理由なのだ。私のような人間が世間に対して、全てが嘘で彼らが医療システムと呼んでいるものはただのインチキだ、と公言されたくないのだ。今日実践されている医学では、癒しはあまり考慮されないし、現状はいかに病気にさせておくか、になっている。そうすることで、患者が死ぬまでに、出来るだけ沢山の有害な化学物質を売りつけることができる。この方法で彼らは自分達の地位を維持することができ、貴重な仕事を確保することが可能になると同時に、製薬会社に大金を生み出すことができるのだ。問題は大多数が、自分達の身の回りで起こっていることを考え、止めさせるための時間が無い、または脳力が足りない、ということだ。彼らは我々が有する自己破壊の性向を我々自身に対して利用してきた。そしてこれは、権益と呼ばれるシステムによってなされてきた。この惑星はもう長い間、下劣な億万長者や権力に飢えたトップ達によって動かされてきた。彼らには人類にこの悲嘆をもたらした責任がある。そしてこの悲嘆は、我々が一緒になって立ち上がり、何とかしなければ、永遠に変わることがないだろう。
 私によるこの短い授業で彼らの頭は回転を始めた様だった。それから我々はこの件について長い議論をいくつもした。しかし同時に、私の状況は悪化していった。日曜には、私の体調は急速に下り坂となった。木曜日から自己治療を許されていなかったし、暖房のせいもあり、私は必要とされる休息を得ることができないでいた。私は鉄の輪が頭の周りを締め付けるのを感じ、それが示唆するのは、血圧が非常に高くなっていることだと知っていた。全体的に私はアムハースト留置場でうまくやっているとは言えず、この施設はそこに囚われている者にとって、拷問部屋以外の何物でもなかった。それは鎖で繋がれて、裁判所に引っ立てられて行く前の、順番が来るまで待機房で待たされていた月曜日の午後だった。
 私の支持者であるブルースとヴァル・ステイリングが2万ドル以上かけて、判決言い渡しと、この事件の審理のために法廷弁護士を立ててくれたのだ。ブルースとヴァルは本当に傑出した人達であり、自ら進んで、このような行動を起こしてくれたことに、私は胸がいっぱいになった。彼らは二人とも個人的な体験から、私がこの治療薬について言っていることが真実だと知っていた。それで、窮地に陥っている私を助けるのが、自分達の務めだと感じてくれたのだ。私はこの良心の人達とその行為に多大な恩義があり、彼らは私から最大限の敬意を受け続けるだろう。しかし不幸にして、彼らが費やしてくれた弁護料は、最終的な結果にあまり変化をもたらすことはできなかった。偏に法曹界の留まる所を知らない腐敗がその理由である。
 彼らが雇った弁護士のダンカン・R・ビヴェリッジが待機房に話をしに来た時、私の事件について非常に乗り気だった。彼は、私の書類のいくつかに目を通したと言い、私が集めた証拠の豊富さに驚嘆したようだった。「心配要りませんよ。何点か穴埋めさえすれば、この件について全て正しい方向に向かわせられるでしょう。」私はその時、良い状態ではなかったが、彼が事件を解決してくれるかも知れない、と期待した。彼と話して、やっと法律システムで、正気を保っている人間に出会えたのだ、という印象を受け、もしかしたら、この問題を解決するのに、何か簡潔な方法があるのかもしれない、と思い始めていた。
 法廷に入室したとき、私は憔悴しきっていた。血圧は極端に高かったし、気分も悪かった。この日の裁判官はキャロル・ビートン判事で、もちろん、私を勾留し続けるため、司法省のモニカ・マックウィーン検事も隣にいた。モニカ・マックウィーンは、私が不運にも出会わなければならなかった人間の中で、最悪かつ最も陰険な人間だと言わねばなるまい。彼女が浮かべる薄笑いから判断すると、彼女が自分の演じている役割を楽しんでいることは疑いようがない。ダンカン・ビヴェリッジが私の〝犯罪〟の馬鹿らしい本質について指摘したことで、事件の審理が始まるまでの間、私はやっと解放されることとなった。この日のマックウィーンと判事のやり方は、反吐が出るようなものだった。この二人の女性は、権力でトリップしてハイになっているに過ぎないのではないか、そして、どちらも苦しんでいる人の事など眼中にないのだ。だが少なくとも最終的に、私は自由の身となったのだった。
 アムハーストにおける4日間の試練の後、私は家に帰り、オイルを大量摂取し、真っ直ぐベッドに向かった。この4日間ほとんど眠れなかったので、泥のように眠りこけた。翌朝早く、私はドアのノックで目が覚めた。もちろんそれは誰かが医学的問題を抱え、助けを求めている音だった。私はいつも病人を助けたいと思ってやってきたが、法律システムがどのように私を遇してきたか見てもらいたい。私は2005年までドラッグで罪を負わされたことは一度もなかった。システムは、苦悩する人々を助けたため私がしていることを、何がしかの犯罪だと世間に信じ込ませようと躍起になっているのだ。我々皆にとって不幸なことに、多くの人が、彼らが言っていることを鵜呑みにする程に、単に頭が足りないか、心が足りないのだ。
 この頃だったが、スプリングヒルの看守から耳打ちされた事があった。彼によると、私がたとえ刑務所に行くことになったとしても、あまり心配ないということだった。囚人達は私の話に心酔していて、彼らの中でヒーローになっているらしかった。人生のほとんどをスプリングヒル近辺で過ごしてきた私は、刑務所で働く看守達を結構知っていた。彼らと何年も個人的に話してきたが、彼らは囚人達が大麻を入手するのを快く思っているそうだ。なぜかというと、それで囚人達が落ち着いて静かになるからだ。看守が交代勤務に入ったときに、大麻の匂いが漂っていると、彼はその日が良い一日になるであろうことを知る。そんなこともあり、私は刑務所で働く者の多くが、私の活動を見下していないことを良く知っていた。どちらにしても、刑務所に行くことを、実際はそれほど恐れていなかった。私は今までいつもそうだったが、大概の状況でうまくやっていける性質だった。もし刑務所に送られたとして、私の一番の問題は、必要な治療薬が足りなくなることだった。刑務所は薬物の温床であり、いつでも誰かが何か持ち込もうとしている。しかしそれでも、もし収監されてしまえば、オイルを手に入れるのは非常に困難になるのだ。
 医療システムは既に、私の回復の足しになることが何もできないと証明していた。刑務所の医者が処方する使えない化学物質は、私のような症状の人間には用をなさない。私の視点では、治療を受けられようとそうでなかろうと、もし投獄されたなら、スピーチを聞いてくれる囚われの聴衆がいることになり、私は彼らに対してこの治療薬について伝道するだろう。当時スプリングヒル刑務所には約500人の囚人がいたから、それぞれの囚人が娑婆に戻ったならば、システムは私以外にオイルを生産する大勢の人間達とやり合うことになる。
 今までシステムについて見てきた全ての事に、私は辟易させられていたが、事態はさらに悪化しようとしていた。ダンカン・ビヴェリッジが電話を寄越して、作戦会議をするためにハリファックスに出て来られないかと訊いてきた。待機房での彼の発言もあったので、彼が突破口を見出したのだろうと踏んでいた。その日オフィスに入った時に、壁に掛かっていた証明書で、彼がアカディア大学に通っていたことを知った。私はスコット・シェフィールドという名前の男を知っているかと訊いた。スコットはそこに勤めていたから、ダンカンが知っているかもしれないと思ったのだ。彼は驚いた様子で言った「スコット・シェフィールドは私の岳父でした。」そして、なぜ私がスコットを知っているか尋ねた。
 スコットと私の父は生涯の友人だったことを彼に話した。「お父様のお名前は?」と彼に訊かれたので、ローガン・シンプソンだと答えた。彼は「ああ、以前お聞きしたことがある名前です。」スコットが新米教師だった頃、彼はソルトスプリングスで教鞭をとっており、彼と父は親友になったのだった。後年、スコットは『田舎少年の回想』という題名の本を執筆し、その中で私の父との友情について書き記していた。曰く「もしローガン・シンプソンが違った状況下に生まれていたら、彼はローズ奨学生になっていただろう。」(ローズ奨学金はオックスフォード大学の学生のためセシル・ローズにより設立された世界最古の奨学金制度)この予想外の繋がりにより、ブルースとヴァルが雇ってくれた弁護士に俄然、親近感が湧いたのだった。スコットが誠実で、高潔な人間であったことを知っていたので、彼の婿もそうだろうと考えていた。スコットは数年前に癌で亡くなっていたので、ダンカンにはこの治療薬を世に出すため、私を助ける強い動機があると思っていたのだ。
 会議が進むにつれ、私はダンカンのこの件に対する態度が、待機房で話した時のものと違うことにすぐ気付いた。彼はどうかすると、とても否定的で、こんなことを言うのだった「リック、あなたの話は、これが何か大きな陰謀であるかのように聞こえますね。」私は答えて言った「これは陰謀さ。頭蓋骨の中に脳みそがある人間なら、あまり問題なくその事実が分かると思うがね。」すると彼は戦法を変えてきた。「ねぇ、リック、もしあなたが医師だったり、博士号を持っていたりしたら、このオイルについてあなたが言っていることは、もっと説得力があると思いますよ。実の所リック、あなたはあまり教育を受けていない。それで、誰があなたの言う事を真剣に聞くと思います?」私は椅子から立ち上ってやり返した。「ヘンリー・フォードが自動車を発明したとき、博士号を持っていたのか?それとも単なる自転車整備工だったライト兄弟が、人間が空を飛べると世界に披露した時、博士号を持っていたとでも?」
 私は彼に、これ以上そんな馬鹿なコメントを寄越さないでくれると非常に有難いと伝えた。私がオイルについて言ってきたことは全て真実なのだから。私はこの男のことが分からなくなった。ブルースとヴァルに雇われて待機房に来た同じ弁護士の物言いでなかったのは確かだ。彼とのハリファックスでの最初の会合から、この男をそれ以上信頼することは出来なくなっていた。彼が発した言葉と、その発せられ方から、彼が私の為、ひいてはカナダ国民の利益の為に働いていないことが、私にはハッキリ分かった。判決日の直前、ダンカンの法律事務所の同僚弁護士がノバスコシア最高裁の裁判官になった。それから、私に判決が下った直後に、同じ栄誉がダンカン自身にも授けられた。読者はこれを少し奇妙なことだと思わないだろうか。二人ばかりの小さな法律事務所から、実質的には同時に、最高裁判事が二人も任命されたのだ。ノバスコシアには他にも法律事務所が沢山あり、最高裁判事が任命されるのは非常に稀な事である。ここで行われていることは全て、正常からは程遠いものと私には思われるのだ。しかし、多分これは私の勘繰りのせいなのだろう。
 これに遡ること数年前、私達はフェニックスティアーズ(不死鳥の涙)のウェブサイトをインターネットに掲載した。ラリー・ビャルネイソンが全てを制作し、さらにサイト運営に手腕を発揮した。掲載当初は、我々にコンタクトをとるのは週に数十人だけだった。Eメールのほとんどは迷惑メールに毛が生えたものだった。その内容はと言えば「化学療法と一緒にオイルをとっても大丈夫ですか?」とか「科学的証拠はありますか?」などといった質問だ。我々に連絡してくる人達は皆コンピューターを使える状態にあり、その時は既に、皆が高速回線を使っていた。ラリーはサイトの立ち上げや運営を、全てダイヤルアップで行っていた。それは存在する中で最も低速なインターネット接続だ。もし、ラリーがこの情報全てをダイヤルアップで掘り当てたのだとしたら、なぜ高速回線で繋いでいるこれらの人々は、自分達で同じ様にできないのだろうか?多くの場合、彼らはただ手を引いてもらいたいだけなのだ。我々が事実を提示すると、彼らはそれを拒絶するため、他の知見を持ち出すものだったが、真実は恐ろしすぎて理解できない者もいる。それでも、我々は沢山の人々を助けることができた。そして、治療の為、玄関をノックする患者の数は、絶えず増え続けていた。我々のサイトが少ないながらも関心を引いていることに疑問の余地は無かったが、それでもそのときは、とてもゆっくりとした展開だった。
 そこにクリスチャン・ローレットが現れ、ドキュメンタリーを制作し全てを変えてしまった。これにより我々のサイトへのアクセスは爆発的に増加した。私にとってこの上ないことに、クリスチャンは我々のドキュメンタリーを纏めるため、身を粉にして働いてくれた。最終的に彼が到達した成果に、私は最大の称賛を惜しまない。クリスチャンが『Run form the Cure』を制作した時、彼にはビデオカメラと15分おきにクラッシュするポンコツパソコンしかなかった。残念なことに、私には新しい設備を買う余裕がなかった。だからクリスチャンは、彼の手元にある物で作業するしかなかった。実際にクリスチャンがこのドキュメンタリーの為に、どれほどの時間を作業に費やしたのか定かではない。しかし、編集のために何百時間もかかったのは確かである。彼は全ての仕事をボランティアで行った。だから私は、彼が私と世間に多大な恩恵をもたらしたと考えているし、彼がこの計画に注いだ心血は、最大の称賛に値するものだ。
 我々は判決日の前にドキュメンタリーを完成させねばならなかったが、期待に違わずクリスチャンはやり終えた。初めて彼が制作したドキュメンタリーを最初から最後まで見た時、全てを一つに編集できる彼の手腕に驚嘆した。私は「あんたは、自分の手がける作品の中で、最も重要なドキュメンタリーを既に作ってしまったかも知れないよ。」と労った。映画を制作しようとしている者は、それがどんな種類の物であっても、この男の才能に注意を払うべきだろう。彼がチャンスにさえ恵まれれば、輝かしい未来が約束されると、私は信じている。
 我々は『Run form the Cure』を判決予定日の2週間ばかり前に仕上げた。私が投獄されなかったのは、クリスチャンの努力に依るところが大きいと考えている。我々は確実に皆がこの内容に関心を寄せるように、出来るだけ遠く、広範囲に、それを配給した。W5や、フィフスエステイト、デイヴィッド・スズキ、マーケットプレイス、政治家達、弁護士達その他大勢の、影響力があるだろうと思われるところ全てに、DVDを送り付けた。2007年11月30日に私を逮捕したアムハースト警察のティム・ハンターにさえ渡した。私は彼の家族を何十年と知っているのだが、彼が我々のドキュメンタリーを見れば、改心するだろうと考えたのだ。彼に家でそれを見るように頼んでDVDを渡した。そうすることで、誰が本当の犯罪者なのか彼に証明できるだろうと考えて。
 我々は初版として1000枚のDVDを作成したが、家に留めておくことは出来なかった。全ての人がDVDを欲している様子だったから。更にありがたいことに、クリスチャンがYouTubeにドキュメンタリーをアップロードしたことで、多くのインターネットサイトが彼のドキュメンタリーを紹介してくれた。『Run form the Cure』は非常に強力なメッセージとなり、それを観た沢山の人が衝撃を受けた。それが司法システムに同様の影響を与えたと考えている。今や真実が公衆の知るところとなったのに、彼らはあえて私を刑務所に入れるのだろうか?私には既に多くの信奉者がいて、その数は毎日大きくなり続けていた。法曹界もそれを良く分っていた。もし癌を治癒させたかどで、その人間を投獄したら、その事実は世間にとってあまり座りのいいものではないだろうし、彼らは自分達の行動をどう言い訳できるだろう。
 判決当日、私は違憲審査訴訟を弁護してくれた弁護士と、地元のクロニクルヘラルド紙の記者と裁判所で話していた。弁護士はとてもすまなそうに言った「リック、私は法律家だが、司法システムがしていることについて、最早あなたに説明できない。あなたは彼らとやり合って、事実を白日の下に曝した。彼らがあなたにしたことは、とんだ恥さらしだ。」彼はクロニクルヘラルドの記者に向かって言った。「リックのオイルは治療薬なんだ。路上で売っている様なものじゃないんだ。」その記者は頷いた。それから弁護士は私のオイルが検査されたことに触れた。それは初耳だったが、彼によると、連邦警察は成分を特定するため、オイルのサンプルを西海岸の研究所に送った。結果として、私のオイルは、連邦警察が今まで分析した中で、最も強力かつ最も純粋であることが証明された。私は自分が製造していたオイルがとても効力があり、純粋であることを知っていたが、その時まで、連邦警察によって検証されていたとは知りもしなかった。
 それから間もなく、ダンカン・ビヴェリッジが私を裁判所の廊下の小部屋に呼び込んだ。そして、新な戦法を試してきた。彼は最早治療薬が効くかどうかの議論はせず、突如として「事の真相は、政府は公衆に対して研究者グループにこれを発表させたいのです。」ときた。この言い草にカチンときて私はまくし立てた「ダンカン、あんたが言っていることを本当に信じると思うのか?人々は100年以上、研究者が真実を公表するのを待ってきたんだ。奴らは何十年も前からこの情報を知っていたにも拘わらず、世間の耳目を集めるために何もしてこなかったんだ。ダンカン、他にもあんたに訊きたいことがある。もし、あんた等の誰かが癌になったとして、自分自身でオイルを探すんだろうな?」彼はただ頭を垂れた。
 その時私は「なんという弁護士だ」と考えていた。私が言っていることが全て真実だと知っていながら、民衆の目の前で、私を犯罪者にしようという政府の腐敗に、進んで加担しているのだ。その上彼は、この治療薬を文字通り死ぬほど必要としている人達のことなど、お構いなしなのだ。その人達は今まさに、苦しみ死んでいるというのに。私が不幸にして関わらなければならなかった司法システムの人間達の中で、ダンカン・ビヴェリッジが傑出した悪であると言いたてるつもりはない。だが、彼がしたことは本当に虫唾が走るものだったし、このサスペンス劇場に顔を出した以外、何もしていないにも拘わらず、平然と多額の報酬を請求するのは確実だろう。今や当の弁護士が最高裁判事なのだ。彼が統轄する法廷で正義を求める者には同情を禁じ得ない。そこにそれが存在しないことは疑いようが無いのだから。
 数分後、私は裁判官の前に立って、判決を待っていた。「お前さんなら、きっと大丈夫さ。」と自分に言い聞かせながら。その日、多くの支持者が私の判決を傍聴するために姿を見せていた。我々が法廷に入室を許可される前に、全員が金属探知機を掛けられた。私はアムハースト裁判所で金属探知機が使われたという話を、それまで聞いたことが無かった。見た所これらの法律関係者達は不安を感じていたのではないだろうか。もしかしたら、生命の危機すら感じていたのかもしれない。もし、ニュースメディアがこの件を適正に報道し、一般大衆が事件の真相を知ることになれば、これらの法律マッチョ達が、自分達の顔が映るのを恐れる理由は十二分にある。
 かなり多くの私の支持者達が出席していたし、多くが上機嫌でないことは、火を見るより明らかだった。裁判官は、彼の34年に及ぶ裁判人生の中で、この様な事件を見たことが無く、この件には犯罪意思が無い、と切り出した。傍聴席からは拍手が巻き起こり、私が彼らの完全な支持を得ていることは疑いようがなかった。裁判官がこれを言った時、私は危うく笑いそうになったが、私は過去の経験から既に、この件に関して大きな犯罪意思があったことを知っていた。私の公判を通して、司法システムがしてきたこと、現在していることには犯罪意思がそこかしこに見られる、彼らの犯罪意思が。
 それから判事はハッキリ「シンプソン氏が言及していることを裏付ける科学的証拠が確かに存在している。」と認めた。傍聴席からは前にも増して、拍手喝采が起こった。公判ではこの証拠について提出することすら許されなかったのに、今や判事は出席者に対して、それが存在し、しかも真実であると認めたのだ。法廷で提出することを却下したにも拘わらず。状況はどんどん良くなって来ていた。
 「シンプソン氏には、このオイルを病気の治療の為に使用した証人が多数おり、彼らも氏の立場を支持している。」と続けたが、私の事件で彼は一度も患者の証言を聞いていない。自分で証言を許可しなかったからだ。どうしたことか、彼はここにきて、傍聴人にこれも真実であったことを告げ、私が言った通りオイルが効くことを明白にした。この判事が知っていたことを考えれば、なぜ彼は患者に証言させなかったのだろうか。カナダの司法システムは真実についてどうでもよいのか?私が思うに、ここで行われていることは、救いようが無いという一言に尽きる。私を有罪にしようとねちねちと頑張った人達も同様に。我々が夢にまで見た特効薬の発見を、歓喜に咽ぶでもなく、今公表されたことが何も意味をなさないかのように、判決は進んだ。
 私が有罪にされようとしていた罪はかなり重い罰を科せられるものであり、最大12年の懲役に直面していた。判決の量刑は裁判官自身の裁量に任されていた。私は検察がどれほどの懲役を求刑していたか憶えてはいなかったが、彼らこそがその刑期を務めるべきなのだ。この二人の検事こそ道義的に有罪ではないのか。結果として、私は2000ドルの罰金と銃砲所持禁止処分となった。
 なぜ銃規制を受けなければならいのか、私にはさっぱり分からない。連邦警察が行った家宅捜索のいずれでも、私の家には火器が無かったし、どんな方法でも彼らは脅されたりしなかった。私に言わせれば、連邦警察の方にこそ、この処分を受けなければならない人間がいる。銃が無いのに銃所持禁止とは恐れ入る。人々を治療したことに対する2000ドルの罰金、これについて思い当たるのは、公判の最中、私が裁判官や検察官に向かって放言したことだ。しかし、私によって公判の最中に、本当の姿を曝露されたことで、自分達のか弱い法律家精神が傷ついたのだとしたら、それは自業自得というものだ。
 この罰金は彼らに支払われる代わりに、救世軍に寄付されるべきだろう、私がそう言っても、司法システムは自分達の懐に金を欲し、それを拒否した。ここではっきりさせておくが、カッチオーネ判事と彼が支持する司法システムはこの全額を返還すべきだと我々は考えている。彼らから救世軍に対して、私の名義で2000ドルの寄付をすることが望ましい。私が欲するのは寄付がされたことを証明する領収書だけである。私が払うように強制されている2000ドルが最も有効に使われるように要求する権利が、私にはあるはずだ。少なくともそうすることで、私はこの金が単純に盗まれたと感じずに済む。それからこの事件は、カナダ、あるいは他のどこでも、正義としての司法の最大の失策として、歴史に刻まれなければならない。カナダ政府が行ってきたことは、この惑星の全ての男女、そして子供に対して、有害な影響をもたらすものであり、彼らは恥を知るべきだろう。「尊厳と自由を真の目標とし」などと悪い冗談だ。現実には、カナダは犯罪者達によって動かされてきた警察国家である。まあしかし、面白いことが無かったわけではない。その日ダンカン・ビヴェリッジが裁判所を去るとき、私の支持者の一人に詰め寄られた。フルート・ウッドがダンカンに向かって歩いていき、彼を叱り飛ばした。ビヴェリッジは突っ立って聞いていたが、何が起こるかビクビクしていた。フルート・ウッドと揉めたい人間はいないだろう。ビヴェリッジは口を開いて間違ったことを言ったらフルートに真二つにされることを知っていた。フルートによって十分震え上がらされたビヴェリッジは大急ぎで車に乗り込み、アムハーストを出ていった。ハリファックスへの道中、彼とフルートの対決は、自身と自らが一端を担う司法システムの腐敗によって引き起こされたのだと、ビヴェリッジは気が付いたはずだ。フルート・ウッドが彼らのしていることをくさすのも、もっともだった。司法システムがこの件に関して、このようなやり方でしか対応できないことに、彼らの貪欲さ以外の合理的説明は無い。フルートは親愛なる友人であり、私が司法システムで出会ったどんな人間よりも、本物の男であると言えるだろう。
 判決日当日、私はリック・ドゥワイヤーを見かけなかった。彼がどこに消えたのだろうと訝っていた。しかし、駐車場に行くと彼はそこにいた。彼は私を両腕に掻き抱き、解放された表情を浮かべていた。今までオイルが彼の家族を何人も助けてきたから、この件に関して強く感情移入していた。彼は「もし奴らがあんたを投獄するようなことがあれば、何をするか分らなかったから、判決の間自分は外で待っていた方が得策だと考えた」のだと教えてくれた。リックは最も気の置けない親友であり、私には彼の思いが良く分っていたが、差し当たり全ては上手く行ったのだった。