不死鳥の涙 ーリック・シンプソン物語ー 第3章

2019年2月5日

第三章   仕事人生の終わり

 1980年を通じて、私の人生で多くの変化があった。何年も続けてきたが、森を歩き回って狩猟するのを止めた。何百頭もの鹿を殺してやっと、生き物を傷つけることに対する渇望が消え失せた。狩りを初めて最初の数年間、それはさながらスポーツだったが、80年代中頃には、完全に殺戮だと思うようになっていたし、狩猟に対して最早スリルを感じなくなっていた。森で鹿が私と出会ったら、基本的に死が結末となるのが確実だった。36才になる頃には、銃器よりも子供達や仲間と多くの時間を過ごすようになった。何年か前に、友人達につけられたニックネームの“狩りキチ”も、最早使われなくなっていた。それでも私は、どこかキチ(気狂い)だと分類されていたが「狩り」の部分は永久に去ってしまった。ここで遂に私は落ち着いたのだ。それから2、3年して私はリアと付き合うようになった。今も共にいる女性である。人は皆しがみつく岩が必要だ、とよく言われるが、私達はお互いにとって、まさにそんな感じだった。我々は結婚こそしなかったが、悪い時は少なく、良い時を多く共に過ごした。だから多分、何かを正しく行っていたに違いない。
 1990年頃、私は大麻でとても不思議な経験をした。80年代半ばに、私は15歳の息子を持つ女性と付き合っていた。彼はとても聡明な少年で、年齢を越えた知性を持っていた。ある時彼が「人生の意味をどう考えるか」と尋ねてきた。私は「それは深すぎる質問だな」と返したが、彼は自分にとって、それは単純に金とセックスだと言い切った。しばし彼の言ったことについて考えたが、ほとんど反論できなかった。我々が住む世界は、確かに大部分そういうことで回っているに違いない。だがこんな若者からそれを聞くのは、奇妙な体験だった。私達が出会う前に、彼は既に学校を辞めていたので、彼に電子工学のコースをとるように勧めた。彼は実際そうして、ほんの少しの努力で合格した。それから私は、教師になる為の入学試験を受けるよう勧めた。彼は自分にはその資格がないと本気で考えていたが、とりあえず入学試験を受け、これも合格した。
 彼の母親とはもう会っていなかったが、彼は我が家にしょっちゅう出入りしていた。当時私と同居していた長男が、彼と親友だったこともあり、我々は彼を家族の一員のように遇した。大学での教員課程の最終学年で、彼はおかしな言動をとり始め、なんとか卒業こそしたものの、統合失調症と診断された。私が知ることを許された最も賢い若者の一人を、この酷い病気が短期間で蝕んでいく様を目撃することとなった。ただ立ち尽くして、起こることを見ているしかなく、彼の置かれた状況を助けるために、私が出来ることは何もなかった。ある日、彼は家に来て、全く辻褄の合わない物言いをしていたが、おもむろに自分で持ってきたジョイントに火を付けた。およそ半分ほどジョイントを吸ったところで、突如として、彼の思考は冴えわたり、我々が過去にしたバイク旅行についてまともに話し始めた。彼の変化に私は目を瞠った。自分が目撃した劇的な変身を俄かには信じられなかった。彼は正常な状態に完全に戻ったかのようだった。それまで常に彼との会話を楽しんでいたが、病気が彼の人生を乗っ取ってから、分別ある意思疎通は不可能になっていた。
 その日彼が家を出てからすぐさま、私は彼の母親に電話して、何が起こったかを話し、彼が吸った大麻がそれを引き起こしたという意見を伝えた。彼女は医師達から、この病気の患者は皆、大麻の使用は控えなければならないと教えられていた。それから、彼女は彼にジョイントを渡したことに対して、私に説教を始めようとした。私は渡してなどおらず、彼は自分で持っていたのだが。なんにせよ、この女性には話が通じないのだ。正直なところ、私は自分が何を見たのか憶えてはいたが、本当にそれを起こしたのが大麻だったか自信が無かった。その時は、多分医師達のほうが私よりこの病気に詳しいはずだ、という事実を受け入れることにした。一体全体、大麻を吸うことが統合失調症に効くなどと誰が信じるだろうか?
 数年後、この若者は32歳の若さで亡くなった。タラレバの話だが、もし彼が診断された時に、オイルについての知見があれば、どうなっていただろう?現在の私は、もし彼が薬物療法としてオイルを使用していたら、今でも我々と一緒にいて、正常に思考していた可能性が高いと信じるに至っている。何たる悲劇、何たる損失であることか!医療システムは彼を化学薬品漬けにしたが、それは彼にとって最終的に利益よりも害悪のほうが遥かに大きかった。医師達が提供したこの化学的薬物治療には、部分的か或いは完全に、彼があんなに若い年齢で死ぬことになった責任があると私は確信している。それと同時に、彼の病状を治療するのに、本当に助けになったであろう天然の治療薬は、全く考慮されることも無かったのだ。
 1991年、私はアソルのリトルフォークスロード334にある、古いキャンプ場を買ったのだが、そこはスプリングヒルから約8マイルのところにあった。私は1983年にソルトスプリングスに新しい家を建てたばかりだったが、同じことをリトルフォークスでもやろうと試みた。私は実行することに決定し、新しい家を建てた。こうすることで、息子と私がそこに住んで、ガールフレンドがソルトスプリングスにあるもう一軒を占拠できるという寸法だ。建物の敷地を整地するのに人を雇うことはせず、ショベルカーを買って自分でやることにした。1993年6月に建設を始めたが、この期間は当然、フルタイムで病院にも勤めていたという状況でもあったので、家を完成させて住む算段が整うまでに、およそ半月を要した。
 私はまだまだ、しなければならない支払いが沢山あったが、少なくとも私の周りにいる人間は、皆幸せそうにみえた。この後ショベルカーとその適切な使用法に、興味を抱くようになった。それを見るにつけ、こいつを動かすことに練達すれば未来の収入源になる、と思われた。購入したショベルカーは、新品と呼ぶには程遠かったが、導入費用もさして掛からず、維持費も安い、古い役馬のようなものだった。それから私は近所の人達に、ただ同然でサービスを提供しはじめた。まず機械がちゃんと動くよう維持するのに必要な経費だけを請求した。これを仕事にし始めた頃は、自分と機械と燃料の代金として、1時間15ドルを請求した。
 数ヵ月が経過し、私はこの機械の適切な操作を学んでいき、ゆっくりとではあったが、まずまずの操縦者となった。そのために大きな努力を要したことは言うまでもない。このショベルカーの扱いがかなり上手くなった後でさえ、ほとんどの場合、私の請求額は時間当たり30ドルだった。これは似たような機械を持っている同業者のおよそ半額だった。私はかなり安く仕事を請け負っていたので、穴堀り仕事を頼む客が絶えることはなかった。様々な種類の作業を幅広くこなしたこともあり、このマシンのシートで数百時間を過ごした後は、出されたお題は何でもこなせるようになっていた。恐らく大多数の人間、特に男は、こういった重機を動かすのが好きだと思う。多くの人は、どろんこで遊ぶのが大好きな子供を心の中に宿しているだろうし、遊び道具としてショベルカー以上のものはないだろうから。
 私はこのタイプの仕事が非常に楽しかったし、十分な経験を積んだ後は、土地に対して大いに創造性を発揮した。それと同時にしっかりと仕事もこなした。私が育った時分は、仕事は全て額に汗して行う肉体労働でなされていたが、今や自分のショベルカーと共に、私は機械化時代の仲間入りを果たしたのだった。そのとき病院を定年するまで何年もなかったのだが、このマシンをさらに生産的なやり方で動かせるようになっていたので、定年後に自分で造園と掘削の小さなビジネスを起こすのが待ち遠しかった。私の未来は前途洋々にみえた。
 この間、私は小さな栽培室でヘンプを生産し続けたが、そろそろこの植物が自然の環境でどのように育つか知りたくなってきていた。偉大なる太陽の下で、大麻がどのように育つのか見る時が来たのだ。五月下旬、自分の所有地の端を流れている川のたもとに、何本かの大麻草を植えると、収穫期の九月には素晴らしい実りが得られた。室内栽培とは全然違う!プラントは断然大きく育ち、バッツ自体もさらにポテンシャルがありそうだった。ちょうどこの頃、ただ大麻草を乾燥したものを喫煙するよりもさらにいい使い方があるはずだ、と考えるようになっていたので、ハッシュとオイルを生産する方法を調べ始めた。
 ハッシュを作るのは、それ程難しいことではなかったが、オイルを精製するのは全く別次元の話だった。私が河原で得た収穫物は期待を上回るものだったので、私はそこから900gのバッツでオイルを精製することにした。ところが、なんたる失策であることか!私が従った製造法には欠陥があったのだ。この経験から、自分が何を間違ったのか分かった気がしたが、極上のバッツを2パウンド破壊し、精製されたオイルが無価値であることが判明したとき、再チャレンジする意欲は起こらなかった。結果オイル精製は二の次にされた。
 それまでに、ヘンプを7年間育てていたが、同じことをしている仲間のグループができていた。時々、私達は集まって品評会をし、異なった栽培法でとれたバッツの香りや、効きの特徴を比較した。私が知っている栽培者達の誰一人として、大物栽培家と目される者はいなかった。私達は大抵、自分達の消費分が得られていれば十分幸せだった。にも拘らず、システムはいつでも栽培者達を大物麻薬密売人として描こうとする。彼らはこれらの栽培者達が大金を稼ぎ、気ままな生活を送っているかのように大衆に印象付けるのだ。私が知る栽培者達の実情から判断すると、これは現実からは程遠い。
 違法栽培は簡単なものではなく、その当時会った栽培者の中で、実際に収入を増やしたものは余りいなかった。彼らは大概その日暮らしであり、高級車に乗ったり豪邸に住んだりなど不可能だった。私が知る栽培者が大麻を売るのは、ドラッグディーラーと呼ばれる者になりたいからではなく、他に選択肢が無いからなのだ。我々の地域は経済発展からは程遠いのに、仕事が無い時どうやって子供を養えというのだ。
 大麻の喫煙は、この植物を薬用とする場合最も非効率的だが、それでも様々な病状に望ましい効能がある。私の周りでは大麻喫煙は、医学的問題を抱えた栽培者や使用者にとって、症状緩和の助けになっているようだった。当然のことながら、当時、誰もこの物質を〝薬〟として見ていなかったが、知らず知らずのうちに、既に多くの人が治療薬として大麻を使用していたのだった。それが違法であり、大麻使用者は酷いペナルティーに直面することがあるという事実にも拘わらず、人々は薬局で薬を購入することはせず、頻繁に大麻を買って単純にそれを吸っていた。大麻喫煙者達はこの物質の使用によって、自分達にも他の誰にも危害を加えていなかったが、もし同じことを大勢が始めたら、製薬会社の利益に破壊的な効果をもたらしたことだろう。
 さらには大麻の使用と栽培が自由化されれば、酒類の売り上げも激減するかもしれない。我々の世界に害をなす、他の多くの産業の経済性への優先が、ヘンプが違法とされている一番大きな理由である。彼らの目的に叶うように、経済的支配者や政治権力者達が法律を捻じ曲げ、腐敗した運動を展開し、規制を導入したのだ。彼らはこの植物を禁止する必要があった。そうでなければ、人々をコントロールするという彼らの夢は、確実に潰えてしまうのだ。結果として、この植物が現実に公衆を危険に晒すかどうかなどお構いなく、我々をコントロールしたい人間を満足させるために、これらの制限が課せられたのだ。理性的に見れば誰も、ヘンプを育て配給する人間は犯罪者だ、と決めつけることはできないはずだ。製薬業界や他の産業が、人間という種に対して又はこの惑星に対して与えてきたダメージに鑑みれば、ヘンプを供給している人間だけが、正しいことをしているようにさえ思えてしまう。
 私が知る栽培者の多くは、室内栽培物の方が良く、より効きが強いと考えていた。私に言わせれば、このような意見はいつも議論の標的となる。この頃までに、私は屋外栽培物のコアなファンとなっていて、この議論に関して強い思いを抱いていた。他の栽培者によく言ったものだったが、もし栽培シーズンが良好であれば、屋外栽培物のヘンプは最高以上のものとなるのだ。私の見解では、開けた土地で水はけが良く、土のpHが最適であれば、最高の収穫を得ることが出来る。人間がしなければならないことは、良質な自然の肥料を使い、プラントに水を豊富にやることだけだ。この議論における私の一番のセールスポイントは太陽だ。当時は室内の照明装置の明るさは、太陽のそれに及ぶべくもなかった。しかしながら、最近手に入るようになったプラズマ照明器具の出現により、状況はそのうち変わるかもしれない。いくつかの会社が優秀なプラズマ照明システムを製作していて、この装置の価格が下がりさえすれば、室内栽培の様相は完全に様変わりするだろう。
 現在では多くの室内栽培家が、新しいコンパクトな蛍光灯とLEDの設備で、良好な結果を得ている。これらは電気使用量が少なく発熱量も少ない。水の消費を抑えることができ、ほとんどが明るさを数千時間維持することが出来る。室内栽培はなかなかの収穫をもたらしてはくれるものの、大規模に行うと、屋外栽培に比べとてもコストがかかる。言うまでもないが、本来電球ではなく太陽の光エネルギーで成育するように、自然がこの植物を創造したということも忘れてはならない。さらには、自然のストレス要因がプラントを健康にし、活力あるものにする。だから可能であれば、私はこの植物を大いなる自然の中で育てたい。
 病院に雇われていた何年もの間、私は何種類もの異なる設備で働く機会を得てきた。これが私の能力を大きく広げてくれたし、大部分で私はこのタイプの仕事を楽しんでいた。しかし、1990年代中頃にかけて、物事は悪い方に変わっていった。私が働いていた病院は、公衆を助けることをせず〝癒し〟はほんの少ししか考慮されなかった。仕事の出来る人間が、その地位をちゃんと扱えない人間と交代させられていた。私の目には、彼らが求めているのはイエスマンだけであるかのように映った。それまではいつ“チーフエンジニア”を置いていたが、代わりに今は“チームリーダー”がいた。そんなこともあり、何年もの間、病院でしてきたメンテナンスの仕事を諦めてボイラー室に戻るのが、自分にとって一番だと考えるようになった。私が以前していた仕事に戻ることで、給料は少しばかり多くなったのだが、これはエンジニアがメンテナンスのスタッフよりも、多少月給が高かったためである。加えてこの移動は、私をシフト制の仕事に戻したので、まとまった空き時間にショベルカーの仕事をすることもできたし、新しいチームリーダーと関わることも少なかったので、これが誰にも損のないウィン・ウィンな状況のように思えた。
 1972年にいとこが死んでから、病院の待合室が助けを求める人達で、どんどん溢れていくのを私は見てきた。何が起きているのか真に理解してはいなかったのだが、なぜこんなに沢山の人が病気になっているのか、不思議に思ったものだった。他の病気もそうだったが、癌の発生率は爆発的に増加していた。いくつかの病気は過去には珍しいものであり、存在すら知らないものもあった。私が病院で働き始めた当初、そこは地域で重要な役割を果たしていたのだが、今や一握りの患者しか助けることはできず、スタッフは役にも立たない会議のため、大幅に時間を割いているのだった。過去に良い働きをしてきたこの施設が、バンドエイド配給所に毛の生えたものへと様変わりするのを見るのは、とても悲しいことだった。
 この病院に勤めている何年もの間、私が病欠を使うのは本当に珍しかった。どんなに具合が悪かろうが、這ってでも仕事に行ったものだ。同僚が私の具合が悪いのに気がついて、帰るように頼まれたことも2、3度あった。私は病欠を乱用しなかったし、労災も使わず、怪我のための長期休職も使ったことがなかったから、何か起こったときは、保障してくれると考えていた。私は強い労働倫理を有していたと言うことができるだろうし、どんな状況下でも仕事を遂行するという、固い意志をもっていた。万が一怪我をしたときに収入が保障されるように、労災と長期休職のための基金に長年支払いもしていた。不幸にして、近い将来にこのセイフティネットと呼ばれるもの、またはそれが無い状態について、私は身を持って知ることになる。48歳の声を聞こうとするとき私はまだ、あたかも自分が防弾仕様であるかのように人生を送っていた。私の心を占めていたのは、55歳の定年のことで、その後のフルタイムでショベルカーを使った仕事の計画だった。自分の身に何かが起こるなど、微塵も考えたことがなかったし、未来の青写真から自分自身が消えるなんて思ってもいなかった。
 1997年12月21日、ボイラーを修繕するために、外部の作業チームが呼ばれた。彼らはあるエリアのアスベスト断熱材を取り除いたが、そこをカバーするのを忘れて帰ってしまった。アスベストは肺にとても有害な物質であり、私のシフトの後に交代で入るエンジニアが、仕事がおざなりになっているのを見て不機嫌になるのは確実だった。過去に何度も同様のことをしたし、自分の仕事の一部だとも思われたので、そのエリアを自分でカバーすることに決めた。接着剤のスプレー缶とダクト用テープをとり、アスベストを被覆するため、ボイラーの脇の梯子を登って行った。アスベストにテープを貼り付けるには、まずアスベストに接着剤をスプレーしなければならない、そして一分ほど待ち、またスプレーする。こうすることでダクトテープが貼りつくのだ。
 そのエリアに二回目のスプレーをしていた時だ。急に全てが真っ暗になった。一時間かそれ以上かして意識が戻った時、私は小さいボイラーのパイプの上に引っかかっていたのだが、これは作業していた大きい方のボイラーの隣にあった。しばらくパイプと格闘した後そこからから脱出することができ、床に降り立った。だが、歩くことが出来なかったし、実際はほとんど何もできなかった。私は這い蹲って事務所に戻り、助けを呼ぶ電話を掛けようとしたが、電話を上手く扱えない。その間を永遠のように感じたが、やっと交代のエンジニアがその場に到着した。
 彼が教えてくれたところによると、この時の私はかなり見物だったようだ。彼が病院内に連れて行った時点で、私は受付で自分の名前も言えない程だったらしい。この時のことで私が唯一憶えているのは、頭が爆発しそうな感覚だけだ。私は外傷処置室に運び込まれ、酸素吸入をした。数時間、酸素吸引のおかげか頭に掛かっていた圧が少し引いたようだった。私はまだ前後不覚だったが、家に帰るように言われた。その時は、なんとか歩けるようになっていたのだが、とても具合が悪く、その夜どうやって家まで運転して帰ったのか記憶がない。今になって思うと、明らかに運転できる状態ではなかったのに、あの夜退院させられる必要があったのか疑問である。その夜、私の車は自分の家の庭まで、勝手に戻ってくれたかのようだった。続く二日間、私の予定には仕事がなかったのだが、その間の記憶も全く無い。
 12月24日の朝、過去数日間に体験したグロッキー状態が和らいでいた。私はその夜、通常シフトで仕事に出る予定になっていたので、少しふらついてはいたが、仕事に行くことにした。このシフトが最後の仕事になろうとはつゆ知らず。私が負った怪我の様子はというと、腕と肩に擦り傷と青痣がいくつか、頭の右側に10cmのみみずばれ、そして右のこめかみから耳にかけて、酷い見た目のたんこぶができていた。その夕方、仕事場に行って最初にしたことは、実際に何が起こったのか探り出すことだった。私が使っていた接着剤のスプレー缶があったのだが、裏には虫眼鏡でしか読めない程の小さな文字で「吸引すると一時的に神経系に障害を起こします」と書いてあった。
 なぜ私が気を失って梯子から転落したのかが、これで判明した。それから自分が引っかかっていたパイプを見に行った。そこでは目の前にある埃が全てを物語っていた。自分の体がどのように着地し、丸いボイラーの蓋の横を滑り落ち、パイプに絡まったのか目に見える様だった。小さいほうのボイラーの上部には重い鉄の輪が載っているのだが、これが頭の怪我の原因となったのだ。私は約1.8m落下し、鉄の輪に頭から着地したのだ。これで少なくとも、あの時何が起こったのか知ることが出来た。そうして自分がラッキーだったのだと、しみじみと実感したのを憶えている。もし私が気絶して落ちた時、小さいボイラーが作動していたとしたら、私は酷い火傷を負っていたことだろう。
 勤務時間が進むにつれて、私の思考は明快になっていき、気分も少しましな感じになってきた。午後10時頃、システムを運営する為に導入されたコンピューターがトラブルを起こした。私は数分間コンピューターで作業していたのだが、頭の中で耳鳴りが始まった。最初はこの雑音に注意を払わないようにしていたのだが、音はどんどん大きくなり続けた。6時間後の午前4時には、まるで音叉が頭の中で鳴り狂っているかのようだった。これに加え、金属の輪で頭蓋骨の周りを締め付けられるような感覚が出てきた。私は頭がガンガンしていたので、病院内に行き看護師の一人に気分が悪いことを伝えた。看護師は私の血圧を計ると、ここで待つよう指示し、薬を持って戻ってくると、それを飲んで動かないようにと言った。彼女は血圧があまりにも高かったので、私が爆発してしまうのではないかと心配したようだった。この怪我が、頭の中の耐えがたい騒音と、高血圧、バランスの問題、それらに関連する他の問題を私に残した。これから後、私はシステムにされるがままだった。1997年12月25日、私は真っ暗な海に漕ぎ出すように、病院を後にし自宅に向かった。この時はまだ知らなかったのだが、私の仕事人生は、今や終焉を迎えようとしていたのだった。